日々の写真 2019年9月

9月18日 一日中ドライブ
EOS5D Mark II + EF70-200mm F2.8L IS II USM

 朝から500キロドライブして疲労困憊。でも知らない街の景色は好きだ。

 


9月17日 SNSについて考える
EOS5D Mark IV + Carl Zeiss Makro Planar T* 2/50 ZE

 とある大御所の写真家がFacebookをやっていて、示唆に富んだ素晴らしい記事が多いので頻繁に見に行っている。
 だが、そのたびにFacebookは厄介だな、と思う。
 なぜかというと、毎日の記事を見るには支障ないのだが、「いつか見た記事に良いことが書いてあったけど、その記事はどこにあったっけ」という場面で、Facebookは全然役に立たないのだ。
 見たい記事を探すこともできなければ、ダイレクトにジャンプすることもできない。
 新しい記事から、ダラダラとページを下に手繰っていくしかない。
 情報を蓄積するツールとしては、ゴミ同然だ。
 また、Facebookは、万人に開かれたメディアではない。
 友達申請とか、友達にならないと記事が閲覧できないとか、アホくさいなと思う。
 とにかく、私には向いていない。

 Twitterの即時性はかなり役に立つと思っている。
 今起こっていることについて、いろいろな人々の反応が瞬時に流れてくる。
 「現在」を対象にした情報検索ツールとしては秀逸だと思っている。
 だが、Facebookと一緒で、情報を蓄積するツールとしてはほとんど役に立たない。
 どんなに有用な情報だとしても、それは時の流れに流されどんどん小さくなっていって、最後は情報の海に漂うチリのようになってしまう。
 Twitterを頑張っても結局、形あるものは残っていかないという感が強い。
 あと、興味のないものが次々と流れてくるシステムが好きになれない。
 自分がフォローしている人のつぶやきに興味があるのであって、その人が「いいね」した記事などに興味はないのだ。
 「ご一緒にポテトもいかがですか」的なセールスは本当に煩わしい。
 よって、Twitterも私には向いていない。

 インスタグラムは有用だと思ったことは一度もない。
 情報を蓄積する能力もなければ、情報密度を厚くすることもできない。
 インスタの「いいね!」を撤廃すれば、あっという間にユーザーがいなくなるのではないだろうか。
 全てのアカウントがそうではないにせよ、インスタを見るたびに人間の欲深さを感じずにはいられない。
 だから、インスタも私には向いていない。

 自分の得たものを、長期間にわたって社会に還元できるのはブログしかない。
 自分の伝えたいものを、過不足なく伝えられるのもブログしかない。
 ゆえに、「ブログなんて古いよ」と言われつつも、私はブログを大切にする。


 私はともかくとして、伝えるべきものを持った人には、ブログをやってほしいと切に思う。
 素晴らしい情報を、流行りのSNSで流し去らないでほしい。

 それぞれが肌に合うメディアで情報発信すればいいとは思うが、お手軽さや承認欲求充足度だけでメディアを選択すると、自分が苦労して発信した情報が雲散霧消してしまうかもしれないことについて、よく考えたほうがいいのではないか、と思っている。

 


9月16日 小松基地航空祭遠征
EOS5D Mark IV + EF500mm F4 L IS USM

 小松基地航空祭に遠征してきた。
 深夜0時に自宅を出て、4時前に小松に到着。
 串工業団地の大駐車場に向かったが、いつもと様子が違う。
 例年この時間帯であれば、駐車場開放を待っている車はほどほどの数なのだが、今年は車列が駐車場を1周してさらに螺旋状になっている。
 いつも荒天に祟られる小松に似合わず晴天の予報+ブルーインパルス6機復活+米軍F-16の飛行展示という、惑星直列グランドクロスみたいな滅多にない状況なので、全国津々浦々から飛行機好きが大挙して押し寄せているのだ。
 だから、人地獄はもう日の出前から始まっていた。

 日陰のないエプロンで一日中じりじりと太陽に炙られ丸焦げになって、見た目はハワイ帰りみたいになった。
 でも、実際は戦場帰りなのだ。
 顔、首、腕がヒリヒリする。

 それでもやはり、素晴らしい航空祭だった。
 写真の選定と現像を進めよう。
 2900枚もあるけど。 

 


9月15日 荒唐無稽文化財が帰ってくる
F/A-18F Super Hornet "Diamondbacks" NF101(166916) /アメリカ海軍 第5空母航空団 厚木基地所属機(当時)/2011年1月26日10時50分 長野県安曇野市穂高にて撮影
EOS7D + EF70-200mm F2.8L IS II USM(トリミング)

と、2機編隊の僚機「NF104(166919) 」

 今から8年前、いつもの場所で白鳥を撮っていた時、突然頭の上からから轟音が降ってきた。
 驚いて空を見上げると、明らかに軍用機と思われる2機の飛行機が、トレイル編隊で南の空へと飛んでいった。
 その時カメラについていたのは200ミリで、上空の飛行機を撮るのには短すぎたが、急いでシャッターを切って、なんとか写真に収めることができた。
 こんな写真を撮ったこともしばらく忘れていたが、今回掘り起こして再現像してみたら、垂直尾翼のテールコードと機番が見て取れた。
 機番から調べると、当時厚木基地に所属していたF/A-18F スーパーホーネットであることが判明した。

 どうして今この写真なのか。
 それは、あの映画が34年ぶりに帰ってくるからなのである。
 そして、前作のF-14に変わって、今作はこのスーパーホーネットが主役なのだ。

 
 今から34年前、世界中に戦闘機バカの種を蒔いた、伝説の戦闘機映画『トップガン』。
 ちなみに、私もこの映画を見て発芽した戦闘機バカの一人である。
 
 今だから分かるが、ちょっとでも戦闘機の知識をかじったことのある人から見れば、この映画はとにかく滅茶苦茶だった。特に戦闘機の飛び方とか、空中戦とか、デタラメもいいところなのである。
 映画の制作自体もかなり「カッコよければ何でもあり!」のノリで進められたらしい。
 この話については『ひたすら映画を観まくるブログ』の「トム・クルーズ主演『トップガン』制作秘話」に詳しいのでぜひご覧頂きたい。とても面白い。
 とにかく『トップガン』は荒唐無稽だった。しかし、世界中に戦闘機好きを星の数ほど生み出した功績は大きい。だから『トップガン』は荒唐無稽文化財なのである。

 そして何より、私は『トップガン』以上に、戦闘機をこれほど格好良く撮った映画を知らない。
 とにかくジェリー・ブラッカイマー&ドン・シンプソン(制作)とトニー・スコット(監督)の三つ巴で「俺達の考えるかっこいいトムキャットを観てくれ!」という映画だった。
 だから、荒唐無稽文化財なんだけれども、戦闘機映画としてはダントツなのだ。

 特に、オープニングからの4分間は、伝説級の出来だと思う。
 著作権的にダメだと思うが、オープニングを切り出した動画があったので、あえてリンクを張っておく。気に入ったらぜひ全編を御覧いただきたいと思う。→『TOP GUN Intro Danger Zone HD 1080p』(YouTube)

 この変態的とも言えるフェティシズムに溢れたカメラワークと音楽。
 極めて特殊な、空母甲板という世界をこの4分間に凝縮しているのはすごいことだ。
 これを観て「戦闘機ってかっこいい」と思わないわけがない。
 私は飛行機の写真を撮る時は今でも、この『トップガン』のカメラワークがお手本だ。

 そして来年、『トップガン』が続編になって帰ってくる。
 F-14トムキャットもすでに退役し、トム・クルーズも57歳である。
 どんな物語として展開するのか。
 個人的には、オリンピックよりも楽しみだ。

 そして、『トップガン』続編に願うことはただひとつ。

 荒唐無稽でもいい。F-18を格好良く撮ってほしい。

 なぜこんな話をしたかというと、明日は小松基地航空祭
 トップガンをお手本に、しっかり撮影してきたいと思います。 

 


9月14日 新しい記事を投稿しました


→  雲が美しかった日

 


9月13日 惰眠を貪る
EOS5D Mark III + EF70-200mm F2.8L IS II USM

 昨日書いたように、夜型生活を続けているせいで、たまに睡眠負債が一気に吹き出して、宵のうちから寝落ちしてしまうことがある。酒が入ると顕著だ。

 今回はまさにそれで、ブログの更新もままならなかった。

 子供のころ、酒を飲んで寝ている親父を見て「なんて時間を無駄にしてるんだ」と思ったが、私も同じ歳になって、おんなじことをやってるのだ。

 血は争えない。

 


9月12日 夜型人間
EOS5D Mark III + EF135mm F2L USM

 若い頃から夜型人間で、深夜2時3時まで起きていることはザラにある。
 今もまさにそうだ。
 すでに高校生の頃からこうだったので、不摂生と言うよりは多分体質だ。

 長年、創作とか思考のピークをこの時間帯に集中させてきたので、今更元にはもどれない。
 「朝起きてやればいいじゃん」とはならないのだ。

 確か壇蜜が、「寝てしまうと明日が始まってしまうから寝るのが嫌だ」みたいなことを言っていた。
 その気持がとてもよく分かる。 
 


9月11日 絞りについて考える
EOS5D Mark III + EF35mm F1.4L USM

 写真を始めた当時は、とにかく絞りを開けて、背景をトロトロにぼかすのが大好きだった。
 大枚をはたいて明るいレンズを買ったのだから、開放で使わなければ損だという屁理屈もこねていた。
 でも今振り返ると、開放で撮っていたのは楽だったからなのかもしれない、と思う。
 絞り込んで、全てにピントが合ったいわゆるパンフォーカスの写真は、主たる被写体のみならず画面全体のバランスを考えなければいけない。
 だが、開放絞りで背景を大きくぼかしてしまえば、そこまで背景に神経を尖らせなくてもいいし、主役と背景の差がはっきりするから、写真のテーマもわかりやすくなるメリットがあったのだ。
 だから、初期の写真はほぼ開放か、それに近い状態で撮っていた。

 現在は、開放から絞り込みまで幅広く使うようになった。
 背景がとろけた写真も大好きだし、ギチギチのパンフォーカスも好きだ。
 また、EF16-35mmは光条を出すためにF18以上に絞ったりするし、逆にゴーヨンなんかは絞ってもボケも画質もほとんど変わらないので、開放でしか使わない。

 ただ、いまだに絞りの設定はほぼ勘なので、その絞りの選択が正しかったかどうかは分からない。
 多分、熟練者が見れば「なんだこの絞りは」と怒られるだろう。
 もうちょっとちゃんと勉強しなければいけないのではないか、という危機感があったりする。
 危機感を抱きつつ、今日も勘で撮っている。

 

 新規記事を移植しました。
 → サンキャッチャー/レインボーメーカー

 


9月10日 新しい記事を投稿しました

 

 → 花束

 今朝、レンズを壊す夢を見た。
 公園みたいなところで、私は広角ズームを着けたカメラを持っている。
 ふと誰かに話しかけられて気を取られた瞬間に、カメラが私の手から滑り落ち、レンズを下にしてコンクリートの地面に激突した。
 ああっ、やってしまった!と慌てて拾い上げると、レンズフードがモナカの皮みたいにバキバキに割れていて、レンズを覗き込むと前玉にヒグマが全力で爪を立てたみたいな傷が付いている。
 無残な姿を晒すレンズを眺めながら「この前修理したばっかりなのにどうするんだ」と困惑していると、急に空が騒がしくなった。
 見上げると、頭上のかなり低いところを、導入されたばかりの政府専用機(B777)が飛んでくるのが見える。
 純白のボディにウェーブを描く赤い帯。
 ああ美しいなぁ、レンズを壊していなければ撮れたのに、と地団駄を踏んだ。
 すると、私の真上を通過した政府専用機の後ろを、要人を乗せるための黒塗りの車とかマイクロバスが政府専用機と編隊を組んで飛んでいくではないか。
 あれ、なんで車が空を飛んでいるのだろう。
 そう思ったところで目が覚めた。

 やっぱりレンズの修理が精神的にもかなり痛手になっているらしい。
 私はあまり現実を反映した夢は見ないのだが、カメラ機材に関する夢は結構見る。
 それも、「機材を壊すことへの潜在的な恐怖」が核になった夢だ。
 今まで見たその類の夢で一番キツかったのは、「カメラ機材全部を積んだカヌーで川下りをしていて、なんでもない瀬でいきなり沈没する」というものだった。
 水に沈みゆく自分と挺を見ながら、「ああもうこれで写真は撮れなくなるな」と絶望して目が覚めた。

 写真関連ならば、もっと楽しい夢を見たい。

 


9月9日 ウォーターマークは必要ないと改めて思う
ウォーターマーク(透かし)の例
ウォーターマーク(透かし)の例

 ウォーターマークとは、画像に重ねて入れるいわゆる「透かし」だ。
 その文字列は、作者名とかブログ名とか、「転載禁止」とかが一般的だ。
 ネット上に写真を掲載している人の半数くらいが、このウォーターマークを入れているようだ。

 ネット上の写真ブログを巡る生活を長く続けているが、これまでずっと腹の中で思っていた。
 そして今、改めて強く思う。
「ウォーターマークは必要ない」
と。
 いや、必要ないというよりは、「入れないでほしい」と言いたい。
 なぜかというと、「写真がもったいない」から。

 ※「ウォーターマーク」を随所に散りばめた文章は読みにくいので、以下、「WM」と省略して記します。

 上の画像は、試験的にWMを入れた夜空の写真だ。
 写真を見た瞬間、星のきらめきや木立のシルエットがすっと目に入ってきただろうか。
 おそらく、最初に目に入ったのは、WMだったのではなかろうか。
 どうしてか。
 なぜなら、人間の視覚はそういう仕組みになっているからだ。
 人間の目は、1枚の画像のなかで最もコントラストの高い部分を自動的に追うようになっている。
 ふんわりボケた背景の中に、カチッとピントが合った花が一輪写っている写真。それを見た時、視線が自動的にその花へと引きつけられることは、誰しも感覚的に分かると思う。

 WMは大抵、目立つように入れられている。
 ということは、その写真を見た瞬間に目に飛び込んでくるのは、写真の内容ではない。
 撮影と現像の苦労の末、やっとネットにアップした写真を見た人が最初に目にするのは、心血を注いだその写真の内容ではなく、その上に被せられたWMなのだ。
 さらに、その写真を見続ける間も、WMはずっと鑑賞者の視線を妨害し続ける。

 正直に言わせてもらうと、私はWMの入った写真を見た時、それがどんなに素晴らしい作品であっても、心から楽しめたことは一度もない。
 それが素敵な写真であればあるほど、心の底にはさらに苛々としたものが引っかかる。
 このWMさえなければ、もっとこの写真を味わえたのに、と。

 WMを写真に入れるのは、「盗用防止」が主たる目的らしい。
 だから写真の主は、その写真をいつか盗用するかもしれない人間の登場を予見して、「盗られてたまるか」とばかりに写真にWMを入れる。
 ネット上に悪人は確かに存在し、時折悪事を働く。そして、それはとても目立つ。
 だがそこに、「善良な鑑賞者」の存在を忘れてはいないか。
 ネット人口を構成するのは悪人ではなく、大多数の「善良な人々」である。
 善良な人々は、ただ純粋に、静かに写真を楽しむ。そして、それは目立たない。
 WMを入れる写真の主は、そういう善良な人々の存在を忘れているか、軽視しているのではないか。
 そして、来るのか来ないのか定かではない、正体不明の敵に向かって吠えている。
 私がWMを好きでない理由は、そういう「常に悪人の方を向く姿勢」にもある。

 想像してみてほしい。
 炊きたての美味しいご飯を出す定食屋があったとする。
 客はそのご飯が楽しみで、足繁くその店に通ってくる。
 ところがある日、店主は怒って言う。
「この店のご飯を、隠れておにぎりにして持ち帰って、外で売る奴がいるかもしれない」
「うちで出す飯で誰かが儲けるなんて許せない。隠れておにぎりにされないように、ご飯全てに砂をまぶして客に出すことにする」
と。
 極端な例えかもしれないが、WMというのはこういう思想だと感じるのだ。

 そもそも、WMはすでに著作権を保護するための有効な手段ではなくなっている。
 本当に悪意のある人間は、WMを塗りつぶしたり、WMの部分をトリミングしたりしてまでも盗用する。
 また、WMを除去するソフトがいくつも開発されている。 →Google検索結果(この検索結果から、WMがいかに嫌われているかも分かる)
 今後、ネット上で写真の盗用に対抗したり、著作権を保持していくためには、WMとは全く別の手段を講じなければならなくなってくるだろう。その件については別の機会に書きたいと思う。

 私は、WMを写真に入れない主義だ。
 そうするに至った、苦い思い出がある。
 20年以上前、私は空の写真を撮って、それをPCの壁紙にしてネットで配布していた時期があった。
 ある日、その壁紙をダウンロードした人からメールが来た。
 「とても素敵な壁紙で気に入っています。ですが、この透かし(WM)がなければもっと良いと思うのですが」
とそのメールにあった。
 正直、私は腹が立った。
 「作者が作品にサインして何が悪い。誰かに手柄を盗られたらどうするんだ」
と思った。
 しかし言われてみると、私が自己顕示欲で入れたそのWMは、見れば見るほど確かに邪魔だった。
 なめらかなグラデーションを描く空の中で、WMはイガイガとした異物感を放っていた。
 その時私は気づいた。
 私の写真を批判してきたと思っていたそのメールの主こそが、最も純粋に私の写真を味わっていてくれたのだということを。
 メールの主は、私の写真をちゃんと味わっていたからこそ、WMの異物感を人一倍感じ、「もっとこの写真をちゃんと見たい」と訴えてきてくれたのだ。
 それから私は、自分の写真にWMを入れることを
一切やめた。
 私の写真を純粋に見てくれる人の方を、向いていこうと思ったのだ。

 そして今、私は当時と逆の立場にいる。
 日々巡るネット上で、WMの被せられた写真を見るたびに、
「このWMさえなければ、もっと素敵な写真なのに!」
と心から思う。

 見に来てくれる人に「写真を楽しんでもらう」のか、写真自体を犠牲にしてまでも「見えない敵に怯え」たり「撮った自分の存在と手柄を示す」のか。
 あらためて、ネットで写真を公開している人々に問いたいのだ。


 これは、どうでもよくない話です。
 良い写真がもったいないんだ本当に!

 


9月8日 懐に走る激痛
修理完了したEF70-200mm F2.8L IS II USM
EOS5D Mark IV + EF100mm F2.8L Macro IS USM + ストロボ

 8月7日に故障して修理センター送りになっていた、70-200mmが退院してきた。
 普通に使う以外にも、特に2倍のテレコンを着け140-400ミリの遷超望遠域ズームとして重宝していたので、戦線から離脱した期間はかなり心もとない思いをした。

 修理期間が長めだったのは、修理センターお盆休業期間を挟んだことと、事前に送られてきた見積りメールの内容にショックを受けて、私が修理続行のゴーサインを出し忘れたためだ。

 このレンズは以前にもAFが合焦しなくなって修理に出したことがあって、その時はAFユニットの交換とかで、だいたい2万数千円の修理代だったので、今回もその程度の出費を予想していた。
 特に大きな衝撃を与えたり、水没させたりとかはなく、通常の使用範囲で使っていたと思う。
 ただ、およそ10年間に渡って、かなりの頻度で使い倒した事は確かで、想像以上にレンズの内部に疲労が蓄積していたのかもしれない。

 診断の結果、

 フォーカス機構部の不具合により、ご指摘の現象が発生していたため、不具合箇所を含む部品【メインカム円筒ユニット】を交換いたしました。
※上記作業に伴い、光学調整が必要なため、ピント調整リングを交換いたしました。

とのことだった。
 そして、何より驚いたのはその修理代だった。
 もうショックすぎて文字にしたくないので、興味のある方は下のリンクをクリックしてご覧頂きたい。
 EF70-200mm F2.8L IS を持っている人は精神衛生上、見ないほうがいいかもしれない。同じ厄災がいつか自分に降りかかるかもしれない恐怖に打ち勝つ自信がある人のほかは、この画像を直視しないほうがいい。

  → 驚愕と悲しみの修理代請求書(画像)

 ご覧いただけただろうか。

 10年前に連続して導入したレンズが軒並み老朽化の時期を迎えつつある。
 他のズームとか、サンニッパやゴーヨンだってこの先壊れないとは限らない。いやむしろ、いつか必ず壊れる。
 その時、また私の懐から福沢諭吉小隊が、時には中隊が出撃していくのかと思うと戦慄する。
 彼らは一度出撃すると決して帰ってこないのだちくしょう。
 
 最近、機材にときめくことが少なくなった。
 今日、また一つときめきが減って、ため息が一つ増えた。

 こんな話ばかりだと気が滅入るので、ちょっと前向きな話をすると、帰ってきたレンズの画像が明らかにシャープになっていた。
 普通に使っていても、やっぱり光学系に微妙な狂いが蓄積されていくのかもしれない。
 今回は完全に分解調整だったので、レンズの中も外もピカピカになって嬉しい。


 ここまで苦楽を共にしてしまうと、なんか情が湧いてしまって特別なレンズになってしまうなぁ。

 


9月7日 過去記事を新規に移植しました


夏の雲
レッサーパンダのポートレート

  今日は多忙につき、文章はありません。残暑が厳しい一日でした。

 


9月6日 「無題」について考える
EOS5D Mark III + EF70-200mm F2.8L IS II USM

 昨日に引き続き、写真のタイトルについて考えてみたい。

 人はなぜ、写真に「無題」というタイトルを付けるのか。

「もうタイトル付けるのが難しいし、面倒くさいし困っちゃう」
という人には、心中お察ししますとしか言いようがないのだが、
「写真にタイトルなんかいらない。この深遠なる世界観を言葉になんかできるか」
と考えている人も中にはいると思う。
 確かに、言語化を拒むような写真はあると思うし、私は必ずしも写真にタイトルが必要とは考えていない。
 だが、「無題」はちょっと引っかかるのである。

 「無題」というのは、タイトルが「ない」のではなくて、タイトルがないという状態が「ある」、つまり、写真に無題という「タイトルを付けている」ことに等しい。
 写真の言語化を拒んだり、タイトルを付すことを否定するのであれば、タイトル欄は空白になって然るべきであるのに、そこにあえて「無題」と書くということは、表向きにはタイトルを付ける行為を否定しながら、心の中ではタイトルを付ける必要性を認めていることになりはしないか。

 「お詫びの言葉もございません」という言葉でお詫びする。
 「かける言葉も見つからない」という言葉を見つける。
というのに似ている。
 「言葉にできない」というのもそうだ。
 言葉にできないという言葉にできている。
 言葉にできないどころか、言葉にした上で、さらには名曲に仕立て上げた小田和正はすごいな。

 話がそれた。
 そういうわけで、私は「無題」というタイトルを見るとその自己矛盾性が気になって、写真鑑賞のノイズになってしまって困る。

 ついでなので付け加えると、「無題」に輪をかけて「untitled」がことさらにキツい。
 アンタイトルド、まさに無題なのだが、なぜ英語なのか。
 本文は日本語なのに、なぜかタイトルは英語なのだ。
 そのほとばしり出る自意識に私は圧倒されて、また首筋のあたりがモゾモゾしはじめる。

 写真のタイトルは難しい。


 それはさておき、今日も記事を移植しました。
→ 大望峠と天の川
 そういえば、今年は星を撮りに行ってないなぁ。

 


9月5日 やみつき塩キャベツと写真のタイトルについて考える
EOS5D Mark III + EF16-35mm F2.8L II USM

 以前、居酒屋に「やみつき塩キャベツ」なるメニューがあった。
 試してみると、味は悪くなかったが「やみつき」になるほどではなかった。
 「やみつき」になるかどうかは食べる側が判断することであるが、それをわざわざ名前に冠しているその感じに思い当たることがあった。

 何を言いたいかというと、写真においても「見る側が自由に感じるべき点について、わざわざタイトルに盛り込む」ことは、この塩キャベツと同じではないか、という話だ。

 例えば、「○○する天使たち」とか「妖精たちの○○」とかはよく見るタイトルだが、その写真に天使や妖精が写っているわけではもちろんない。
 私はそういうタイトルを見ると、写真を味わうという基本動作のほかに、天使や妖精といったイメージと写真の中身に整合性があるかどうかがどうしても気になってしまう。
 それらがノイズとなって、写真鑑賞の邪魔をするのだ。

 そもそも、その写真から何を連想するかは鑑賞者が決めることだ。
 そこをわざわざ、天使の~、とか、妖精の~、というタイトルを付けるのは、暗に「この写真には天使や妖精が写っていることをイメージしてください」と鑑賞者に圧をかけることに他ならない。
 タイトルによって、鑑賞者を縛っている。
 縛られた方は窮屈だろうと思う。

 かくいう私も、以前はそういう「盛り込んだ」タイトルが嫌いではなかった。
 盛り込んだタイトルを多用していた時期もあった。
 でも、後から自分の写真を見返すと、そういうタイトルを付けるときに限って、写真自体が弱かったように思う。要は「名前負け」の状態だった。
 写真が弱いからこそ、無意識的に自分の意図するイメージへと鑑賞者を誘導しようとしたのだろう、と気づいた。

 それから私は、タイトルに盛り込むことをやめた。

 今は、タイトルにいろいろ盛り込むよりも、自分が意図するイメージを鑑賞者に連想させ得るよう、写真の内容にこそ心を砕こうと考えている。

 私の付けるタイトルが素っ気ないのは、そのせいなのだ。


 それはさておき、新規に記事を移植しました。 

ナトリウムランプが灯るころ
青空とシャボン玉
紅葉2012 ― 長野市、八幡原史跡公園の紅葉

 


9月4日 「毎日」というのは「たまに」の1億倍難しい
EOS5D Mark III + EF70-200mm F2.8L IS II USM

 晩酌をしたら疲れていたのか眠りこけてしまって、起きたら夜半近くになっていた。
 そのまま朝まで寝ようかと思ったが、「日々の写真」を更新しなくてはと思い立ち、いまパソコンの前に座っている。
 この企画を始めるまでは、ブログを毎日更新するなどということは考えたこともなかった。だから、毎日更新することの大変さというものも考えたこともなかった。
 私の周りには毎日更新を欠かさないブロガーが沢山いるが、今更ながら「みんなすげーな」と感心している。
 自分でやってみて初めて分かったのだけれど、毎日更新というのは、たまに更新することの1億倍以上難しい。
 生まれてこの方、日記帳を使い切るどころか数ページ書いて放り出していたのが常という私なので、先月中旬からずっとオーバースペックなことを続けているのだ。だから、いつこの企画が頓挫してもおかしくない状態だということを重ねて説明しておきたい(挫折への布石)。

 さて、旧ブログは現在記事が見られなくなっているが、じつは非表示になっているだけで過去記事はすべてデータとして残っている。
 これまで、過去記事に掲載したのと同じ写真を再調整、再現像して、移植記事としてこのブログにアップしていた。
 今、2012年の記事を移植中だが、この頃になると、写真の調整だけでなく、写真のセレクトも満足にできていないことが多くなっていて、昔のまま移植しても粗さだけが目立つような気がしている。
 だから、2012年より前の写真は過去記事の内容はすべて無視して、写真のセレクトから全てやり直すことに決めた。
 手間はかかるけれど、多分それがベストな選択だと思う。
 私の写真は、このブログ以外で人の目に触れるということがないので、このブログくらいはちゃんとしておきたいのだ。

 今日は過去記事の移植をしようと思ったのだけれど、ここまで書いて再び眠くなってしまったので、移植はまた明日。
 意志の硬さは滑石並みなのだ。(硬度1)
 

 


9月3日 ある夜明け
EOS5D Mark III + EF16-35mm F2.8L II USM

 過去の写真を漁っていたら、またお蔵入りになっていた写真を見つけた。
 撮影日は2012年8月28日の明け方。
 長野市の地附山の辺りに、日の出を撮影しようとして行ったのだ。
 夏だというのに、東の空にはもうオリオン座が昇ってきていた。
 朝のまだ冷たい空気の中を、何人かの早起きランナーが走りすぎていった。
 夜と朝の隙間でまどろんでいるような町並みが好きだ。
 そろそろ消えていこうとしている街明かりの下で、ほとんどの人はまだ夢を見ているに違いない。

 撮るには撮ったが、全体のまとまりがつかずにそのままお蔵入りになっていた。

 こんな景色もいいかもしれない。
 

 


9月2日 新しい記事を投稿しました

旧制松本高等学校(あがたの森文化会館)

 


9月1日 カメラマンはプロフィール写真でなぜかカメラを持っている
EOS5D Mark IV + EF24mm F1.4L II USM

 9月になった。ああ、もう9月か。
 今日もまた、どうでもいい話。

 カメラマンのプロフィール写真は、なぜ皆カメラを持っているのか。
 →その一例(Google画像検索)

 たぶん私の特異な感覚なので共感は得られないのかもしれないが、そういう「カメラと私」的なプロフィール写真を見ると、これまた首筋の辺りがこそばゆくてたまらない。

 ズバリ言ってしまうと、まず、「僕はこのカメラで撮っちゃうぞ!」というカッコつけ感がすごい。
 「僕はこうしてカメラを持っていることから分かるように、カメラマンなのです!」という念押し感もすごい。
 そもそもカメラマンとしてのプロフィール写真なのだから、カメラと一緒に写らなくても、その人物がカメラマンだということは自明であるのに、それを承知で敢えてカメラを手にしてしまうその感じ、なのだ。

 深遠な作品を撮ったり写真に対する深い考察を持っているなと感じるカメラマンでも、プロフィール写真はすがすがしいほどに「カメラと私」だったりして、逆に感慨深かったりする。

 その中でも、「カメラを撮影ポジションに構えてファインダーを覗き、片目はこっちを見ている」というパターンのプロフィール写真を見ると、首筋がこそばゆいのを通り越して、両手で顔を覆って「きゃー!」と叫びつつ、指の間からしっかりそれを見てしまうという、自己演出型乙女みたいな反応をしてしまう。
 どうかしているのは、きっと私の方だ。

 そして、どんなプロフィール写真であろうとも、撮る写真には全く関係がない(と思いたい)ので、結局どうでもいい話なのである。
 でも、こそばゆいぞ。

 


 

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