ハミダシ写真と文 2019年12月

12月31日 大晦日
EOS5D Mark III + EF135mm F2L USM

 令和元年もいよいよ1日を残すのみとなりました。
 本年も当ブログをご覧いただきありがとうございました。

 ブログ11年目にして、初の毎日更新企画「日々の写真」をスタートし、なんとか年末まで続けてくることができました。
 私に幼少時代からつきまとっていた「何をやっても長続きしない」というレッテルは、そろそろ返上したいと思います。

 大晦日にあたり、「日々の写真」シリーズを自分でざっと見返してみましたが、写真はともかくとして、文章は「特に言う必要もない」内容ばかりだったような気がします。
 でも、それを敢えてやることの意味をいろいろ考えます。

 私のブログの姿勢は基本的に「全肯定」です。
 私が素敵だと思ったものを撮って、素晴らしいものとして発表しています。
 これはブログが始まって以来の、不変のスタンスです。

 しかし、一生懸命写真をやっていると、被写体への愛着以外に、いろいろと考えたり感じることもあり、そういう澱のようなものが、しらずしらずのうちに腹の底へ蓄積されてきました。
 写真に対する思想は特に明文化しなくても、写真として現れるのだからいいじゃないか、という考え方もあると思います。
 ただ、写真だけでは伝わらないことも沢山あり、撮影者の言葉が写真のバックボーンになることがあるのも事実で、「だったらもったいないから言ってしまおう」となりました。
 それと、あと数年も経てば、私の性格からして、こんな面倒臭いことをいちいち文章にするのは億劫になってしまうことは明らかで、そういう意味からも今書いておくほうがいいのではないか、とも思ったのです。

 振り返れば、言わなくてもいいラジカルな物言いも結構盛り込んでいますが、場末の寂しいブログは全くの不燃性で煙も立ちませんので安心です。

 今後もまたこのネットの片隅で、言わなくてもいいことを懲りずにつらつらと書いていきたいと思いますので、今後ともお付き合いいただければ幸いです。

 それでは皆様、良いお年をお迎えください。

 2019年(令和元年)大晦日

 球わかば


 ※明日も定常運行で更新します。

 


12月30日 新しい記事を投稿しました

 

→ 夕月、望月の出

 いよいよ年の瀬です。
 ブログは年末年始に関係なく定常運行でいきます。

 


12月29日 新しい記事を投稿しました

 

→ メシを撮ること2019年12月

 今回は年末なので、ちょっと早めにアップします。年末年始は来年分へ。
 今回も、いかに酒を飲むかがテーマとなっております。
 


12月28日 季節感
EOS5D Mark II + EF24-70mm F2.8L USM

 この日々の写真シリーズは過去11年に渡って撮りためた中からバラ写真を選んでアップしているのだけれど、現在の季節に照らしてあまり違和感のないショットを選んできた。
 しかしよく考えたら、どの写真も何年も前の写真なのだし、面白さの点からみれば「真冬に桜の写真」みたいなのもコントラストがあっていいのかもしれない、と思う。

 正直なところ、ここ数日で急に真冬らしい天気になってきて、自分の中で光あふれる季節への思いが強まってきたこともその要因のひとつとしてある。

 寒くなれば「早く春が来ないかな」と思い、うだるような暑さの中では「早く涼しくならないかな」と思う。
 現金だけど、人ってそういうものだ。

 今後は、ちょっと季節感の違う写真もアップしてみたい。 


12月27日 ベテルギウス
EOS5D + EF300mm F4 L IS USM

 写真とは全然関係ないが、冬を代表する星座「オリオン座」の肩に位置する赤い星「ベテルギウス」が、かつてないほど暗くなっていて、もしや超新星爆発の兆候では?とニュースになっている。

→  オリオン座のベテルギウスに異変、超新星爆発の前兆か 天文学者(CNN)

 高校時代はまがりなりにも天文部だったので、私も少なからず興味があって、ここでベテルギウス問題についてつらつらと書こうと思ったのだが、私が拙い説明を重ねるより、もっと素晴らしい解説があるのでそちらを是非ご覧いただきたい。
 10年前の記事ではあるが、今でも十分通用するし、ベテルギウス問題についてこれほど詳細に分かりやすく書かれた文章を私は他に知らない。

→  ベテルギウスの最期:超新星の兆候とその威力

 いかがだろうか。宇宙好きならばワクワクしてくるような素晴らしい解説ではないだろうか。

 このブログの著書はおそらく現役の物理学者(天体物理学か素粒子物理学か)だろうと思う。 
 専門家だから、難しく書こうと思えばいくらでも難解にできるところを、専門性を失わないギリギリのレベルで素人にも分かりやすく解説している。
 何よりも著書の言葉遣いが巧みで、なんというか「知識欲に直接火をつけられる」感じがする名文だ。

 私もいつかこんな文章を書いてみたいが、それこそベテルギウスの爆発よりも低確率である気がして溜息が出るのだ。

 


12月26日 寝落ちしました
EOS7D + EF300mm F2.8 L IS USM

 毎度のことながら、美味しい日本酒(雪の茅舎 山廃純米)を飲んでぼんやり幸せに浸っていたら、あっという間に朝になりました。

 贖罪に写真だけは載っけておきます。

 


12月25日 新しい記事を投稿しました

 

→ 参拝者の影 ― 善光寺参道

 モノクロ調ですが、カラーです。
 強い照り返しで、視界からはほとんど色が消えていました。

 


12月24日 自分の写真と向き合う
EOS5D Mark II + EF70-200mm F2.8L IS II USM

 第三者からはほぼ同じものにしか見えない、よく似た2枚の写真。
 そんな写真に、自分なりの明確な理由をつけて、どちらかを選択していくこと、また、どちらかを選択できるような感覚を磨いていくことが「写真を突き詰める」ことだと思う。

 自分の写真の中から1枚を選ぶ時「なんとなく良いと思った」という理由をつける人がいる。
 しかし、私は自分の写真について判断する時「なんとなく」はありえないと思っている。

 「なんとなく」は判断の放棄だ。
 それは、自分の心が何に反応しているのかに目をつぶってやり過ごすことでもある。
 そういう目隠しみたいな状態で写真を続けても、「写り」はするが、おそらく「撮れ」はしない。
 自分の写真について「なんとなく」なのだから、他人の撮った写真を見てもそれ以上に「なんとなく」となるのは当然だ。
 自分の写真が分からないうちは、多分、他人の写真もまた分からないままだ。 

 写真に限らず、芸術というものは自分の中の「何を是として何を否とするか」という取捨選択の感覚を、極限まで細分化して追究していくことだ。
 だからこそまず自分の写真と向き合って、自分の感覚を突き詰めていくことが大切なのだろうと思う。

 撮りっぱなしで自分の写真を見返さなかったり、写真のセレクトを他人に委ねているようでは多分、いつまで経っても、目隠しのまま他人の声を頼りに当てずっぽうに棒を振り下ろす「スイカ割り」のような写真スタイルになってしまうことだろう。
 

 


12月23日 新しい記事を投稿しました

 

→ 安曇野アートヒルズミュージアム「キャンドルナイト」

 今日は本当に年末らしく、そこらじゅうを駆けずり回っていました。
 全く写真とは関係のないイベントを忙しくこなしています。
 ああ、年の瀬。

 明日は頑張って燻製を作ります。

 


12月22日 長い影
EOS5D Mark II + EF16-35mm F2.8L II USM

 今日は写真のみで。
(撮影に行ってたら時間がなくなってしまいました。)

 


12月21日 イルミネーションを嘆く
EOS5D Mark II + EF35mm F1.4L USM

  最近はイルミネーションをめっきり撮らなくなってしまった。
  はっきり言って撮りたくない。さらに言えば、あまり見たくもない。

  なぜかというと、ほとんどのイルミネーションはただまばゆいだけで、美しさや雰囲気といったセンスがまるでなく、下品極まりないからだ。

  写真でもそうだが、主題を際立たせるには、適度な余白が必要だ。
  イルミネーションも同じで、光を際立たせるには適度な暗闇が必要なのだ。
  しかし今、イルミネーションの傾向としては、とにかく光で埋め尽くすことに躍起になっていて、そこに光の儚さや美しさを味わう余地はない。
  日本が誇る美的感覚である「余白の美」は一体どこにいってしまったのか。

  さらに辟易させられるのはその色使いだ。
  青色LEDの発明でイルミネーションはあらゆる色を高彩度で自由に使えるようになった。
  自由に使えるからこそ、そこに節度やセンスが必要なのに、どのイルミネーションもやりたい放題で毒々しい色合いのものがほとんどだ。
  真冬のイルミネーションなのに寒々しい青色系の光で埋め尽くすなんてどうかしている。

  個人で飾り立てるイルミネーションにとやかく言うつもりはないが、公共のイベントや、ましてや有料のイベントに至っては、もうちょっと美的感覚を磨いてから開催してほしい。

  これではただの電気の無駄遣いと言うほかない。

 


12月20日 昔の記事をリニューアルしてアップしました

 

→ 半野良の白茶猫と遊んだこと

 小学生くらいまでは、私も近所の野良猫とかなり良好な関係を築いていて、猫の方から私にすり寄ってくるようなこともざらにあった。
 しかし、どういうわけなのか大人になってからは、猫に煙たがられるどころか、相当に恐れられるようになってしまった。
 そのレベルは尋常ではなく、例えば車の中から猫を見ただけで思い切り身構えられ、パワーウィンドウをちょっと下げただけで一目散に逃げられるとか、15メートル先の猫が私を見て固まって、私が一歩でも踏み出そうものなら即座に逃走して物陰へ、といった具合なのだ。

 もうこれは、コミュニケーションの齟齬というよりは、私の背後に猫が恐怖する超常的な何かが憑依しているとしか考えられない。
 だから、猫は私ではなく私に憑いている「見えざる何か」に怯えていると思うのだ。
 ちなみに、恐れられるのは猫からだけで、犬とは超良好な関係だし、カモシカやサルなどの野生動物にもかなりの距離まで近づくことができる。
 なぜか、猫だけなのである。

 大半の猫に恐れられる一方で、ごく稀に、私を恐れず普通に接してくれる少数派の猫がいる。
 相当度胸が座っているのか、かなりの変わり者なのか、それとも種族を越えた博愛主義者なのかは知らないが、とにかくそういう猫は私と遊んで写真を撮らせてくれたりするので、とても嬉しい。。

 この猫も、そんなマイノリティな猫だった。

 私と遊んでくれる猫は常時募集中なのだが、彼らにどうやってアピールしたらいいのかは、依然としてわからない。 
 

 


12月19日 寝落ち
EOS5D + EF50mm F1.2L USM

 またもや寝落ちしてしまった。
 というわけで、この記事は20日に書いている。

 夕食後、ぬるめの風呂にゆっくり浸かって、体の芯までじんわり温めてさっぱりして、風呂から上がって23時頃「さあブログやるぞ」とPCの前に座ったが最後、右手をマウスの上に載せた正しいOA姿勢のまま2時半まで寝た。

 普段の酒寝落ちの場合、アルコールによる催眠作用の裏で身体は覚醒しようと努力しているのか、酒が抜けるとバチッと目が覚めるのだが、風呂上がりの眠気というのは強烈で抗いがたいものがある。
 風呂で体温が全体的に上昇して、風呂上がりに体温が下がっていく過程を脳が「寝る態勢」と勘違いするらしい。
 眠気に対する抵抗勢力もなく、体全体がシャットダウンの手続きに入るので、もうどうしようもないのだ。

 私のような超夜型人間にとっては、ぬるめの長風呂はかなりリスキーな行為である。
 しかしこの時期、気持ちいいんだよなあ。
 

 


12月18日 新しい記事を投稿しました

 

→ 初冬のニホンカモシカ

 1000ミリとかの超超望遠は「遠くのものを手元に近づける」という目的もさることながら、野生動物の撮影においては「相手に無用のストレスを与えない」という目的のほうが勝るのではないか、と今回の撮影を通して思いました。
 カモシカの冬毛は本当にモフモフで暖かそうです。 

 


12月17日 続続・写真展と写真集
EOS5D Mark II + EF70-200mm F2.8L IS II USM

【昨日の続き】

「写真展はやるな。写真集も出すな。ブログをやれ」
 私がそう考える理由、それは、
「ブログは、写真展と写真集のいいとこ取り」
だからである。

 以前から言っているように、ブログというのは毎日写真展をやっているようなものだし、写真を集積していつでも閲覧できる状態におくことで写真集として機能させることもできる。
 現実の写真展のように、わざわざ足を運ばなくても、インターネットの接続環境さえあれば世界中から閲覧可能だし、24時間いつでも、何度見ようが自由である。
 写真集のように見るのにお金もかからず、大荷物として保管管理する必要もない。
 誰に伺いをたてる必要もなく、自分で良いと思った写真を好きなだけ展示できる。
 写真を組にして掲載できるし、好きなだけ文章もも追加できる。
 ブログはいまや旧式のシステムかもしれないが、これほど直感的に写真を展示したり蓄積したり参照したりできるメディアはほかにはない。
 このように、ブログは写真展を開いたり写真集を出版するのと同じことができるのだから、これを活用しない手はない。
 だがブログを写真のためにしっかり活用している人はまだまだ少ないように感じている。

 ブログは、他のSNSの如く即時に情報が拡散したり、「いいね」の反応を逐一気にするような、一喜一憂の場所ではない。
 ブログは覚悟のメディアである。
 他人がどう思うかよりも、まず自分がどう思うか。
 自分が良いと思ったものを信じて、ひたすら積み上げていく、それがブログだ。
 SNSと比べたら、手軽さを欠いた地味な作業が延々と続く。
 でも、そうやって長年積み上げた写真や文章の価値においては、はっきり言って、他のSNSに負ける気がしない。

 だから私はブログで写真を続けてきたし、これからもおそらく続けていく。
 そして願わくば、写真を頑張っている大勢の人たちにも、ブログを大いに活用してもらいたいと思っている。

【写真展と写真集・終】

 


12月16日 続・写真展と写真集
EOS5D Mark II + EF24mm F1.4L II USM

【昨日の続き】

「写真展はやるな。写真集を出せ」
 私は、この父の言葉に一理も二理もあると思った。
 私は写真展を観に行くのが好きで、遠方まで足を運ぶこともかなりある。
 そして行った先の写真展で、大いに感銘を受ける。「凄い写真だったな」と思う。
 だが、そこからまた長距離ドライブして帰宅して、普段の生活を2、3日送ると、「あれ、どんな写真だったっけな」となってくるのだ。
 素晴らしい写真で感動したことは覚えているが、肝心の写真の内容は早くも朧げになってくる。
 写真を一度見ただけで記憶に焼き付けるのは、意外に難しいのだ。

 写真展が終われば、展示作品が人の目に触れることがなくなるので、開催者から見て「それっきり」になってしまうのと同時に、目にした写真を明確に記憶できない鑑賞者にとっても写真展は「それっきり」になりやすいのである。
 その点写真集は、本という形になっていつまでも手元に残るし、いつでもそれを手に取って観賞できる。
 写真展の弱点を克服しているのが写真集だ。

 しかし、写真集にも弱点はある。
 まず、写真集は高い。 1冊数千円から高いものでは数万円のものが普通にある。
 いくらその写真が気に入っているとはいえ、大枚をはたいてその写真集を買うのには相当の覚悟がいることは確かで、誰もが気軽に手を出せるものではない。
 さらに、写真集はでかくて重い。 先述した高額な写真集ほど、大判でページ数も多かったりして取り扱いに難儀する。
 心して手に入れた写真集でも、いつしか本棚のデッドストックになりがちである。
 写真集は財政だけでなく生活空間をも圧迫するのだ。
 紙媒体であるという魅力は大きいものの、その魅力を相殺するほどの煩わしさが写真集にはあるように感じられる。
 また、写真集を作る側も多大な苦労を伴う。 出版社から写真集を出すとなれば、まず出版社が首を縦に振らなければ何も始まらない。
 昨今の出版不況で、出版元も相当にシビアな判断をしてくることは容易に想像できることだ。
 出版社を通さず自費出版するという手もあるが、まとまった部数を自分で買い取る財政的リスクもあるし、作った写真集が流通販路に乗らないので、第三者がその写真集を手に取る機会は自ずと減ってしまうのは避けられない。
 私は、今写真集を出すことは、あまり現実的ではない選択だと思っている。

 では、どうすべきか。
 私はここで父の言葉を補足してこう言いたい。
「写真展はやるな。写真集も出すな。ブログをやれ」
と。

【明日に続く】

 


12月15日 写真展と写真集
EOS5D Mark II + EF135mm F2L USM

 私の父は昔から山岳写真をやっていて、私が子供だった頃は、よく真冬の北アルプス山中に何日も篭ったり、重い機材を担いで頻繁に山へと分入っていた。
 若い頃から撮り貯めた写真は相当な量になっており、ある時一念発起して写真展を開催することになった。
 写真展に出す作品の選定や展示順の選考、ラボとの間で繰り返される写真のトリミングや焼き加減の指示、作品ひとつひとつへのタイトル付け。
 普通なら夕飯後には酔っ払って、卓袱台の横で市場のマグロみたいになっているはずの父が、何枚ものポジをライトボックスの上に並べて、ルーペ片手にああでもないこうでもないと悩んでいるのを見て、当時の私は「写真てのはなんて面倒くさいんだ」と呆れた記憶がある。
 それが今や、私こそが毎日そういう生活を送るようになっていたりするので、つくづく血というのは恐ろしいものなのだ。

 そうやって父が苦労して準備した写真展は、個展としてはかなり大掛かりなもので、長野県内数か所だけでなく、県外の会場でも開催されて、そのたびに父と母はトラックに沢山のパネルを積んで会場まで自ら遠征していった。

 写真は、多大な金や時間を費やして自ら苦労を買って出るようなところが多くて、側から見ると相当に馬鹿げた所業に映ることもままある。
 だが、写真は楽しいのである。
 そんな出費や苦労が消し飛ぶほど写真は楽しい。だから写真をやるのだ。
 今はそういう事実を身をもって理解しているが、当時はまだよく分からなかった部分も多くて、家族として申し訳なかったな、とも思っている。

 そうやって何度も写真展を開催した父が、それから何年も経ったある日、私に向かって曰く「お前、写真展はやめておけよ。それよりも写真集を作れ」と。
 写真展は「それっきり」になってしまって、後に何も残らない。だから、形として残る写真集を出した方がいい、と言うのである。

【明日へ続く】

 


12月14日 新しい記事を投稿しました


→ 落葉 ― 善光寺参道

 紅葉が撮れなかったので、落ち葉で我慢しようという涙ぐましい撮影。
 来年は撮れるといいなぁ。

 


12月13日 昔の写真を再現像してアップしました(解説付き)
EOS5D + EF135mm F2L USM

 私が一眼レフを手にして写真を撮り始めたのが2007年。
 最初は何をどうやって撮っていいのか分からず、一時はカメラに一切触らないような期間もあった。
 人生に紆余曲折あって、逃げ場所として写真を再開したけれど、やはり何をどう撮ったらいいのかは依然として分からないままで、上のタンポポのように、「目に留まったものを単発で撮って終わり」ということが多かった。
 それから12年、今では写真なしの生活など考えられないレベルまで写真バカ化しているが、この境地に至るまでにはいくつかの分岐点があった。
 おそらく、最初の分岐点となるのは2008年。
 ぼんやりとした中から、「自分の写真とは何か」を少しずつ掴んでいった時期だと思う。
 その頃の写真を振り返りつつ、再現像してアップしてみた。
 下手くそで恥ずかしいのだけれど、今日の自分につながる写真の萌芽があるような気がする。

→ 能生の海と光と風と(2008年2月)
 どうしても海の写真が撮りたくて、新潟まで一人でドライブした。
 とにかく枚数を多く撮らなければならないと思い、50ミリレンズ1本勝負で、気になったものを端からスナップしていった。
 この頃は一眼レフ独特のボケが楽しくて、バカの一つ覚えの如く絞りを開けて撮っているので、パンフォーカスのショットは皆無である。
 とりあえず撮りました的なショットが多いが、最後の2枚だけは明らかに内向的な感じになっている。
 今を思うと、この2枚が撮れたことは収穫だったかもしれない。

→ 橋の下 (2008年3月)
 確か、仕事の帰り道だった。
 仕事疲れで気持ちが滅入っていたが、なぜか写真は撮ろうと思った。
 普段から見慣れた、地元の斜張橋。
 カメラを持って、橋の下におりてみた。
 冬の鉛色の雲に覆われた日で、橋の下も薄暗く寒かった。
 写真を撮りながら、さらに気持ちが滅入るような気がした。
 そこでふと、そんな暗い気分を反映させられないかと思って撮ったのがこの写真だ。
 相変わらずの絞り開放祭りだが、「写真に感情のバイアスをかける」ということに初めて挑戦した点では、里程標となる撮影だったと思う。

→ 枯切株陰影(2008年3月)
 土門拳が言うところの「ためつすがめつ写真」を実践しようと思って撮った。本の中で土門が「写真は沢山撮らなければだめだ」と言っていたこともあり、一つの被写体をなるべく多くの角度から何枚も撮ることにした。
 川の堤防に転がっていた切株が面白いと思ったので粘って撮ったのだが、結果的にはよくわからない写真の羅列となっている。
 だが、現在の粘着性撮影のルーツをたどればこの撮影に行き当たる。そういう意味で、歴史的な写真となった。 

→ 仁科神明宮(2008年3月)
→ 霊松寺(2008年3月)
 神社仏閣を撮り始めたのもこの辺からだ。仁科神明宮は「撮るには撮ったがあまり撮れていない」写真の典型だが、撮っていてなんとなく撮影のリズムが分かってきたような気がしたことを覚えている。
 霊松寺は、あらゆる要素が入り混じった撮影地の中で、自分で決めたテーマに沿った被写体を選んで撮っていくということを初めてやった撮影だった。

→ 夜の赤信号と月下の踏切(2008年3月)
 初めて本格的な夜の撮影をした。
 今ではほとんど手持ちだが、この頃はちゃんと三脚を担いでいった。
 見慣れた景色でも、撮り方によっては雰囲気を出せることを理解した撮影だった。

→ 夜へと続く道(2008年5月)
 これまでは一つの撮影地で撮ったものは一つのまとまりとして写真にしていたが、この日は初めて別々の撮影地の違った被写体の写真を組み合わせてブログにアップした。初めての組写真的な写真となった。
 とはいえ、当時は何も考えずに感覚だけでやっていたのだけれど。

→ 大町市「竈神社」例大祭奉納花火2008(2008年9月)
 「もしかして、花火は手持ちで撮れるのではないか」と思い立ち試してみたのがこの撮影だった。
 予想外にちゃんと撮れたばかりか、バルブ撮影で撮った一般的な花火写真と違って、花火大会の臨場感が写っている気がして嬉しかった。
 花火大会は花火だけではなく、観客も花火の一部だとこの時気づいた。
 これ以降、花火大会はずっと手持ちで撮ることとなる。
 技術がこれほど進化しているのに、いまだに「花火は三脚を立ててバルブで撮る」という固定観念でガチガチになっている世間へのアンチテーゼでもある。
 ぜんぜん認知されないけど。

 というわけで、今日は記念すべき過去写真について振り返ってみました。

 


12月12日 新しい記事を投稿しました

 

→ 紅葉のち夕空

 こういう一発大逆転劇があるので、写真って面白くなっちゃうんですよね。
 頑張ってもなんの実入りもない日もあれば、最後の最後で神様がご褒美をくれるような日もあります。
 5D4のシャッター故障による入院中で、先代の5D3を連れ出しましたが、長期ブランクにも関わらずよく頑張ってくれました。


12月11日 久々にカメラ誌を読む
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

 図書館に行ったら、雑誌の書架に『アサヒカメラ』がかなりの冊数揃っていたので、久しぶりに読んでみた。
 写真を始めた頃はこの『アサヒカメラ』をはじめとしていろいろなカメラ誌を読んでいたのでおそらく慣れっこになっていたのだろうが、今回、久しぶりに手に取ってみたら違和感が凄まじかった。

 誌面前半の各作家の写真部分はまだ良かったが、その他はほぼ価値が感じられない。

 カメラ誌というのは、写真ではなく「写真ビジネス」で食っている人々が、写真ビジネスを継続して営んでいける土壌を作るためにあるのだとつくづく感じた。
 カメラ誌によってアマチュア(と呼ばれるビジネスの顧客)を囲い込んで、永遠にアマチュアのまま飼いならすのが目的なのではないかと疑いたくなる。

 どうしてプロと呼ばれる人たちが使い慣れたシステムを総入れ替えして、違うメーカーの新機種を持ち出して撮影に出掛け、新作発表という体で写真を掲載するのか。
 どうして月例コンテストの入賞者はほとんどが写真サークルの加入者で、わざわざその写真サークル名を掲載するのか。
 小手先の技術論や初心者の心構え的な特集を沢山組むのに、どうしたら職業写真家になれるかとか、写真で食っていくにはどうするか、のような特集はなぜ組まれないのか。
 カメラ誌だけ見ているとごく当たり前の光景だが、はっきり言って異常な世界である。

 考えれば考えるほど、アマチュアはアマチュアのまま存在してもらわないと困る人達の思惑が透けて見えてくるようだ。

 今になって思うが、カメラ誌は自分が写真を続けることにとって何の助けにもならなかった。
 物欲だけは刺激してくれたかもしれないが。

 よくカメラ沼、レンズ沼などと言われるが、沼の深さや危険度でいえばカメラ誌のほうが底なしかもしれないと思っている。
 写真を始めたばかりの人は注意したほうがいいかもしれない。

 


12月10日 地元に幸運あり
EOS5D Mark II + EF35mm F1.4L USM

 まとまった時間ができたので隣県にでも足をのばそうとしたのだが、なぜかしきりに遠征よりも地元をうろつこうという気分になり、その辺を徘徊していた。
 遠征費用でプチ贅沢なお昼を食べ、そのまま山に直行したらカモシカに会えた。
 やはり直感には従ったほうがいいのかもしれない。 
 いつもは年末年始から本格始動するカモシカだが、今年は前哨戦から戦績がいい。
 でも、いろいろハプニングもあった。
 いずれ本編で書こうと思うが、要は「人とカモシカの間にも礼儀あり」なのだ。 

 


12月9日 クリスマス商戦
EOS5D Mark IV + EF135mm F2L USM

 久々に長野の善光寺参道をスナップした。(本編は後日)
 街はクリスマスへ向け一直線で、鐘の音ではなくて金銭の音が聞こえてきそうである。
 子供の頃は、街がクリスマスめいてくるともう楽しくて楽しくて仕方がなかったが、いつの間にか何も感じなくなってしまったのが寂しい。
 これが大人になることか、なんていう野暮な感想は置いておいて、昔のクリスマスはもっと全体的に暗かったと思う。暗かったけれども、雰囲気は今よりもあった。
 どこに行っても垢抜けないクリスマスツリーに、薄ぼんやりとした麦球のイルミネーション(「電飾」と言ったほうがイメージ的に合っている)が、ゆっくりと明滅していた。街全体がこんなにまばゆい光に包まれていなかったから、そんなかすかな電飾でも「聖夜のともしび」的な雰囲気があった。
 夜が高輝度LEDに満たされた今、あのぼんやりとしたクリスマスはもう帰ってこない。
 

 


12月8日 新しい記事を投稿しました

 

→ 雲海の朝

 バラで出せば猛烈なストックになりそうですが、それだと物語にならないので一挙放出です。
 似たような写真を、バラで毎日続けて見せられても嫌になると思いますし。
 そうそう、それは本当にそう思います。

 


12月7日 続・孤独な旅
EOS5D + EF135mm F2L USM

  昨日、「写真は孤独な旅だ」と書いた。
  だが私とて、写真にまつわる全てを自己完結するほどには達観できていない。

  私は基本的に自分のために写真を撮ってはいるが、自分で撮って撮ったものを自分だけで眺めて終わり、というやり方で写真と関わるのだとしたら、こんなに写真に熱中することはなかっただろうと思う。
  私がここまで写真を続けてこられたのも、私の撮った写真が「誰かに見てもらえる」からだ。

  このブログには毎日沢山の方々が時間を割いて足を運んでくださる。それが何より嬉しい。
  気にいる写真も気に入らない写真もあるかもしれないが、写真や文章を通して私の視点や思いを一瞬でも共有してもらえることが貴重なのだ

  このブログを訪問してくださる方の中には知っている人もいるが、そのほとんどは、日本のどこかの、あるいは地球のどこかに住んでいる、まだ会ったことのない、よもや一生会うこともないかもしれない、お互いに顔も名前も知らない人々である。
  そんな人々が不思議な縁でこのブログに辿り着き、自分の写真を通して何かを感じてくれることは、本当に素晴らしいことだと思う。

  私はそういう人々に写真を見てもらえるから、こうして写真を続けていられる。
  自分のために撮っているのは確かだが、いつも自分の心はこのブログを見に来てくださる方々に向いている。

  私にとって「写真は孤独な旅」であることは間違いない。でも、私はこのブログがある限り、孤独ではない。

 


12月6日 孤独な旅
EOS5D Mark IV + EF70-200mm F2.8L IS II USM + EXTENDER EF2×III

 とある人から以前、「写真は独りでやってても駄目だ、絶対に上手くならない」と言われたことが、ずっと胸の奥に引っかかっている。
 率直に言うと、私は写真を仲間同士でわいわいやろうと思ったことはこれまで一度もないし、おそらくこれからも多分ない。

 写真は孤独な旅だ、と思っている。
 たとえ周りにどれだけ人がいようとも、自分のファインダーの中は誰とも分かち合えない。
 何にレンズを向け、どの瞬間にシャッターを切るのか、それを決めるのも自分しかいない。
 撮った写真を取捨選択するのも、自分しかいないのだ。
 写真における全てのプロセスにおいて、他人の価値観や尺度が介在する余地などない。
 もし、誰かに判断を委ねるとしたら、それはもはや自分の写真ではない。

 孤独な旅人同士が出会えば話に花も咲くだろうが、ワイワイガヤガヤの団体旅行客とは多分話が合わないだろう。
 やりたい人は大勢で楽しくやればいい。

 だが、私は独り静かな旅路をこれからも歩く。

 


12月5日 退院
EOS5D Mark III + EF100mm F2.8L Macro IS USM

 露光ムラの不具合で、修理センター送りとなっていたMark IVが退院してきた。
 予想どおり「シャッター機構部の不具合」という診断で、シャッターユニットの交換となった。
 「やっぱりそうだったか!」と思ったが、こんな予想は的中したところで、ちっとも嬉しくない。
 そして、今回も来ました「修理完成伝票」。
 → 修理代はこちら(画像)
 また福沢さんが私の財布から旅立って行った。

 旅立つといえば、よく考えたらこいつは修理のために大分県まで往復したのである。
 カメラボディではあるものの、「お前は九州旅行できていいよなぁ」と思ってしまった。
 おれも行きたいぞ九州。

 


12月4日 新しい記事を投稿しました

→ 秋田・男鹿半島へ「なまはげ」に会いに行く+α

 もう、なまはげにすっかり心を鷲掴みにされてしまって、私は秋田(特に男鹿周辺)の虜です。

 


12月3日 ある写真の撮影者に腹を立てた話
EOS5D + EF300mm F4 L IS USM

 昔、とある写真投稿サイトに投稿されていた写真とその撮影者について、非常に腹立たしく思ったことがある。

 その写真は、夜空に浮かぶ大きな満月に、羽ばたく白鳥が重なって写っているものだった。
  一見すると、見事としか言いようのない、絶妙のタイミングで撮影した写真だ。しかし細部までよく見ると、その写真には不自然な箇所が沢山あった。
 まず、明るい月をバックにした白鳥がシルエットにならず、翼の羽根の並びや顔かたちがちゃんと写っている。
 撮ったことのある人なら分かると思うが、満月の光量はかなり強烈で、月面の模様がはっきり写るくらい露出をアンダーにすれば、月以外の部分は全て黒く潰れて写ることになる。
 一方で、月夜に飛んでいる白鳥の顔かたちをはっきり写そうとするならば、満月はその輪郭すらわからないほど明るく白飛びして写ってしまう。
 つまり、この満月と白鳥が同じフレーム内に程よい露出で共存するというのは、現在のカメラのメカニズムでは絶対に写し得ない光景なのだ。
 それ以前に、月夜の晩に遠くを飛ぶ白鳥を望遠レンズでブラさず、かつ、画質を荒らさずに止めて写すこと自体が、そもそも完全に不可能なことなのである。

 要するにそれは、「合成写真」であった。

 センセーショナルな写真なだけに、その写真にはかなりの数のコメントが寄せられていた。
 大部分を占める賞賛のコメントに混じって、写真の事実性に疑問を呈する「どうやって撮ったのか」とか「合成なのではないか」というコメントも、いくつか寄せられていた。
 だが作者は、それらのコメントに対し、
「そういうことを言うのはやめましょうよ」
とか、
「難しいことは言わずに写真を楽しみましょうよ」
とか、問題の核心に一切触れずに、ただのらりくらりと質問をかわすばかりだった。

 私はその作者の態度を見て、なぜか無性に腹が立って仕方がなかった。
 なぜなら傍観者であり作者とは無関係なはずの自分が、この作者から面と向かって馬鹿にされているような気がしたからなのだ。
 どうして馬鹿にされていると感じたのか、その時はまだ分からなかったが、この写真が私の心に暗い影を落としたのは確かだった。

 このことをきっかけに、私は合成写真のあり方について色々と考えることになった。
 この続きはまた次回に。

 


12月2日 新しい記事(過去記事リニューアル版)を公開しました

 ネット不通期間の成果物一挙放出、第2弾です。
 今回は、大量に出します。
 紅葉を中心にしてありますが、季節はずれなものもありますのでご了承ください。

→ 池田町大峰高原の「七色大カエデ」

→ 大町市「霊松寺」池田町「長福寺」の紅葉

→ 伊那市高遠町「高遠城址公園」の紅葉

→ 池田町「長福寺」の紅葉

→ 歩いて帰ろう

→ 海辺のカモメ

→ 夏の高原と空

→ 雨のち晴れ

→ 雨氷

→ 雨の中を

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12月1日 師走
EOS5D Mark II + EF135mm F2L USM

 なんだかんだしている間に12月。
 今年はバタバタしたせいで、気分的に秋をすっ飛ばしてしまったような気がしている。
 そんな状態で年末に突入すると、さらに気忙しくなってしまうんだろうか。

 とりあえずは、修理中のMK4が早期帰還を果たすことを期待したい。
 先日、その見積もりメールが来たのだが、やはりげんなりしてしまった。
 MK4のシャッター耐久性能は15万回。
 まだ15万回には達していないと思うが、それで故障してしまうのはいかがなものか。
 いずれにせよ、これでシャッターカウントがゼロに戻るので、要は新品になったということで無理やり納得したいと思っている。

 


「ハミダシ写真と文」バックナンバー

“ハミダシ写真と文 2019年12月” への2件の返信

  1. ふかさわ さん
    ありがとうございます。
    インターネットの場末のしがないブログで、腹の底に溜まったのもをブツブツと吐き出しております。
    たまにお見苦しいところもあるかと思いますがどうかご容赦ください。
    孤独というと社会通念的にはネガティブなイメージが先行しますが、写真をやっていると「孤独」というものの良さもまた分かるような気がしています。
    とはいえ、それもまたふかさわさんをはじめ、このブログを見てくださる人あってのことですから、とてもありがたく思っております。

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