日々の写真 2019年8月

8月31日 毎月末は「メシ撮り」の日

 驚くべきことに、この「日々の写真」がちゃんと月末を迎えることができた。
 写真と言いながら、結果的に私のボヤキが多くなってしまっているが、いままでそういう機会がなかったので、ボヤキの在庫はまだかなりある。
 多分、私がもっと齢をとれば、今ボヤいていることなどきっとどうでも良くなってしまうに違いない。
 こういう面倒くさいことをいちいち考えてボヤけるというのも、今だからこそできるのかもしれないと思う。
 だから、ボヤけるうちにボヤいていこうと思ったのだ。
 ボヤけられる時にボヤいておかないと、多分何をボヤきたかったのか忘れてしまう。
 それはもったいないと思うのだ。

 こうもたくさん「ボヤく」と書くと、もう「ボヤく」って何だったのか分からなくなってくる。

 それはさておき、8月19日に「スキル維持のためテーブルフォトをコツコツ撮っていこう」みたいな事を書いた。
 私の性格に似合わず、その後律儀にもコツコツ毎日撮影を続けたのだ。
 相当の数の料理写真が溜まったので、その中から写真映えするものを選んで月の終わりにアップしたいと思う。
 今後もメシ撮りをコンスタントに続けられた場合は、月末を「メシ撮りの日」にして、料理写真の記事を出せたらいいなと思う。でも来月頓挫したらごめんなさい。

 では、記念すべき「メシ撮りの日」1回目をアップします。
 


「メシを撮ること2019年8月」

 


8月30日 こそばゆくなる言葉
EOS5D Mark IV + EF35mm F1.4L USM

 これはもう、批判しようとか糾弾しようとか改善を求めようとか、そういうつもりは全くなくて、私のごくごく感覚上の話なので、肩を怒らせて真正面から受け止める必要は全くないことを初めに断っておく。

 写真をやっていて、特にネットで写真関連のサイトやSNSを巡っていると、カメラマン特有の言葉遣いというものをたびたび目にする。
 そしてそれを見るたびに、なんだか首筋の右斜め後ろあたりがこそばゆくなるのだ。

 例えば、構図や露出を「追い込む」というのがある。
 あたかも構図や露出が自分の意志を持って暴れているのを、カメラマンが力ずくで然るべき場所に追い込んで手懐ける、といった光景を想像してしまう。
 露出や構図って、そんなに大げさなものだろうか。 
 「追い込む」なんて言わなくても、「調整する」で全く事足りると思うのだが。
 そこを敢えて「追い込む」と表現するその感じ。こそばゆいのだ。

 カメラが画像を「吐き出す」というのもある。
 「新しいカメラはかなり深みのある画を吐き出すようになって大満足」
といった感じだ。
 ざっくり言って、なんか汚らしいな、と思う。
 撮影のたびにカメラが苦しんでゲーゲー嘔吐してるみたいだ。
 これも、カメラが画像を「出力する」と言えば事足りるのではないか。
 出力なんていわなくても、単純に「出す」だけでも十分通じる。
 それを、わざわざ「吐き出す」という感じ。こそばゆい。

 中でも「思わずパチリ」は真骨頂だと思う。
 Google検索で「思わずパチリ」を検索すると、100万件以上ヒットするので恐ろしい。
 「景色を眺めていたら、突然超絶美人なお姉さんが颯爽と現れたので思わずパチリ」
みたいに使われる。
 「思わずシャッターを切った」と言えば済むような気がするが、そうは言わないらしい。

 そもそも、パチリって、どうなのか。
 往年の35ミリのフィルムカメラには、シャッター音が「パチリ」と聞こえるものもあったと思う。
 だがこの21世紀、パチリ音を出すカメラがどれほど現役でいるのか。
 カメラのシャッター音を「パチリ」に代表させることには、全く同意できない。
 今、電話が鳴っている様子を「リンリンリン」とか表現する人はほぼいないではないか。
 音だって、時代とともに変わるのだ。
 では、パチリじゃなくてカシャリとか、バシャッ、とかピコーンとか言いかえればいいのかというと、そういうことではない。
 撮影するという行為を、もはや全く一般的でない「パチリ」というシャッター音にわざわざ置き換える、その「おどけた感じ」がこそばゆいのである。
 例えばプロのギタリストが、
「今日のライブは最高。僕も気分がノッてきて、思わずジャガジャガジャーン」
と言ったらどうか。
 大工の棟梁が、
「柱の寸法が間違っていることに気がついた!慌ててギコギコ」
と言ったらどうだろうか。
 プロフェッショナル感がたちまち消し飛んで、軽薄なイメージに取って代わりはしないか。
 例えばスマホで、咄嗟の場面を慌ててメモ代わりに撮影するような場合には「思わずパチリ」でもいいかもしれないが、プロのカメラマンやハイアマチュアが「思わずパチリ」をなんの臆面もなく使っているのを見ると、もう首筋がこそばゆくてたまらない。

 カメラマンは「写真を撮る」ということについて、周りが大してそう思っていないのにも関わらず、自分の中で「特殊能力」として認識してしまいがちである気がする。
 その結果、図らずも自意識過剰という岩礁に乗り上げたり、無自覚におどけてしまうような深みに嵌りやすいのかもしれない。
 自分はどうだろうか、と考えるうちに、そういう表現を見るとこそばゆくなってきてしまうのだ。

 でき上がった写真とは何の関係もないので、どうでもいいと言えば本当にどうでもいい話なのだが。
 でも、こそばゆくてたまらない。
 

 


8月29日 怪我の功名
EOS5D Mark IV + EF24mm F1.4L II USM

 イオンモール松本に用事があったので、ついでに前回休館日で撮影できなかった旧制松本高等学校校舎(あがたの森文化会館)へ撮影に行ってきた。
 初めて撮る場所だったので、汎用性の高い35ミリの単焦点1本勝負で行くことにした。
 いざ現場入りしてファインダーを覗くと、なぜか広い。
 35ミリをつけていったと思ったら、間違って24ミリをつけていたのだった。
 替えのレンズはないので、仕方なく24ミリで撮ることにしたが、意外とこれが良かった。
 広角レンズでのスナップは、背景に雑多なものが容赦なく侵入してくるので気が抜けないのだけれど、撮っていてすごく新鮮だった。
 それらの写真はまた、後日まとめてアップしたいと思う。

 


8月28日 発掘

 過去の写真を記事移植のため確認していたら、4年前に山形旅行で行った、加茂水族館のアシカショーの写真が全くの手つかずで残されていたことが判明した。
 改めて選定や調整をしてみたら、普通にちゃんと撮れている。
 アシカやアザラシの可愛らしさもさることながら、特に、飼育員のお姉さんの笑顔が素敵なのだ。
 どうしてこの写真をアップしなかったのか、今となっては全く思い出せない。

 この写真に限らず、過去のフォルダを漁っていると「何でこれがボツなのか」という写真がたまにある(それ以上に、「こんなダメ写真ブログに上げちゃダメだろ」という自戒の念にとらわれることの方が多いが)。
 撮影した当初は、撮影時の記憶と相まって、完全には客観的になりきれていないのも理由の一つだろうと思う。なぜなら、私の場合、時代を遡るほど(写真のスキルが低い時代ほど)、そういう傾向が顕著だからだ。
 だから、相応の時間が経過してから、当時の写真を見直してみるというのも価値があるかもしれないと思った。

 というわけで、4年前の写真ですが、新作記事としてアップします。

→ 山形県鶴岡市「加茂水族館」アシカショー
 

 


8月27日 

 新しい記事をアップしました。
  海と光芒

 


8月26日 写真展を見て思ったこと。
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

 富山県高岡市にある写真ミュージアム「ミュゼふくおかカメラ館」で写真展を見てきた。
 住んでいる所からはやや遠いのだが、ちゃんとお金を払って見るレベルのギャラリーとしてはここが最寄りなので、興味のある写真展があるたびに、これまで結構な回数足を運んでいる。
 今回の写真展は「絶対風景 ー 絶景でつづる日本列島 ー」で、風景写真好きだったらおそらく知らない人はいないであろう、そうそうたる現役プロ風景写真家たちの「これぞ!」という作品が一同に会したもの。

 以下、感想覚え書き。

 まず、巨大なプリントの迫力がすごい。
 大きく伸ばせば、風景写真の魅力は何倍にもなると思った。
 同じ会場であれば、大きく伸ばした人の方が間違いなくインパクトという点では有利になるだろう。
 風景写真家が粒状性の細かいフィルムでギチギチに絞り込んで撮るのは、まさに大伸ばしにするための布石なのだろうと理解した。

 写真展全体の印象としては、熟練のカメラマンが、最高の場所で、最高のタイミングに、最高の技術を使って撮った写真ばかり。
 個展であれば緩急硬軟織り交ぜてくるところだろうが、皆が皆、そろって最高の一枚をぶつけてくるので息つく暇がない。
 高級店の寿司職人が大集結して、全員が順々に大間の黒鮪大トロを握ってくる感じ。
 食べる前から、美味くて当然だろ、というオーラが漂う世界。
 もちろん、大トロ一貫一貫の味は本当に素晴らしく、安定の味。
 にわか仕込の職人には絶対になし得ない、仕事の細やかさがある。
 その一方で、そこには漁村の薄汚い民宿で、夕飯に出された得体の知れない貝の酒蒸しを一口食べた時の、目から火花が散るような「こんな美味いものがあったのか!」という刺激はあまりなかった。
 そこをどう捉えるのかは、見る人次第だろう。

 また、こういう極端な写真展を見ると、感覚が麻痺していろいろな幻想にとらわれる危険性が高いと思った。
 「自分にも、すぐにこんな写真が撮れるんじゃないか」という夢を見て、実際にやってみて思うように撮れずに落胆したり、「自分にはこんな写真一生かかっても撮れない」とダイレクトに落胆したり。
 いずれにしてもそれは幻想だろうと思う。
 こういう「最高の一枚」が居並ぶ写真展では、その最高の一枚を生み出すのに費やされたであろう、莫大な時間とボツ写真が作品の背後で存在感を薄れさせている。
 どんなプロでも、「最高の一枚」にたどり着くまでは「いい感じの数枚」「まあまあの数十枚」「ぱっとしない数百枚」「ぜんぜんダメな数千枚」の存在があるに違いないのだ。
 今日行って今日撮れるなんてこともやはりなく、同じ場所に何度も何度も通い詰めて、最良のタイミングを待ち続けてやっと撮れるまでの、気の遠くなるような時間が存在していることは間違いないのだ。

 だから「すぐにこんな写真が撮れそう」というのは幻想で、実際は「これから撮っていく中で、いつかこんな写真が撮れる可能性がある」が正しい。
 「一生かかっても撮れないかも」というのもまた幻想で、やはり「写真を続いていれば、いつかこんな写真が撮れる可能性がある」が正しいのだ。

 「プロカメラマンに聞いた、写真が上手くなるテクニック100選!」みたいなのもお手軽でいいけれど、プロカメラマンはもっと迷えるアマチュアに、そういう「地道さ」みたいなものを語ってもいいのではないか、と思う。
 そのほうが、3分割構図とは何かを理解するよりも、よほどアマチュアが写真を続けていくための体力となり得る気がするのだが。
 まあ、アマチュアが力をつけると次のプロが生まれるので、あんまり語りたくはないとは思うのだけれど。

 圧倒的な風景写真の数々を前に、そんなことを考えた写真展だった。

 写真展からの帰路、休憩がてら、とある海辺を歩いた。
「風景写真て難しいよね」
 歩きながら妻がぼそりと言った。
私は、難しいって何が、と聞いた。
「さっき見た特別な写真よりも、この目の前にある何気ない景色のほうがやっぱり綺麗だなって思うもん」

 写真というまな板の上で、ちまちま思索をめぐらしていた私をテーブルごとひっくり返して、妻は波打ち際の方へと歩いていった。 

 くやしいけれど、そのとおりだと思った。

 


8月25日 遠乗り
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

 昨日はいろいろイベントがあって休日がほぼ潰されてしまったので、今日は有意義に過ごそうと思って遠乗りしてきた。
 メインの目的は写真展だったのだけれど、今日は疲れてしまったのでそのことについてはまた後日。

 でかい空と海のある景色が好きだ。
 潮風は好きじゃないけど。
 

 


8月24日 空心菜はえらい
EOS5D Mark IV + EF100mm F2.8L Macro IS USM + ストロボ

 中国野菜の「空心菜」(正式名称=ヨウサイ)が昔から好きで、去年は自宅で栽培して、嫌になるほど食べた。

 空心菜は熱帯に自生するサツマイモの仲間で、茎も葉っぱもすべて食べられる上に、栄養価も高く、そしてとにかくよく育つ。
 去年は種から育てたが、発芽するのに時間がかかって、食べられるようになるにはさらに時間がかかった。
 だから今年は面倒くさいので、空心菜は買って食べようということになっていた。

 夏になると、その空心菜が市場に出回り始める。
 空心菜好きなので、迷わず買ってくる。

 恒例の炒め物にしようと空心菜を切ろうとした時、そういえば「空心菜はバカ強い植物なので、切った枝を水に挿しておけば根っこが出て増える」とどこかで読んだのを思い出した。
 物は試しとて、枝を一本食べずにとっておいて、水を入れた空き瓶に挿しておいた。
 すると、3日も経たないうちに本当に茎から根っこがわらわらと生えてきた。
 あまりにも立派な根になったので、それを水から上げて、土に植えてみた。
 そうしたら2週間もしないうちに爆発的に成長して、あっという間に去年の収穫時期のレベルに達してしまったのだ。
 なんという裏技であろうか。
 もう、種から育てる生活には戻れない。

 写真の空心菜は、その収穫の1回目。
 熱したフライパンに油、ニンニクを入れて、そこに適度に切った空心菜を投じ、さっと炒めたところに、鶏ガラスープ、塩、コショウで味付け。
 炒め始めてから1分少々で完成。
 早いし美味いし、素晴らしい。

 肥料さえ適度にやっておけば、食べても食べてもあっという間に復活する魔法の野菜なのだ。
 素晴らしいぞ、空心菜。

 


8月23日 被写体に思い入れがないけれど写真は撮る人 
EOS5D Mark IV + EF300mm F2.8 L IS USM + EXTENDER EF2×III

 もう数年前のことになるが、とある小さなギャラリーで写真展(個展)をやっているのを見つけたので、ふらりと立ち寄った。
 個展の主は初老のアマチュアのカメラマンで、各地の滝を巡り歩いた撮影行の集大成といったような内容だった。
 私が端から写真を見ていると、その主が私の背後に忍び寄ってきて「これは○○の滝で、○○川の奥にあるんだよ」とか「この滝は撮るのが難しいんだ」とか、問わず語りを始めた。
 それは一昔前の家電量販店店員のようだった。写真の鑑賞者に「この写真いいでしょう」と念押しするような目に見えない圧力に満ちていた。

 私は写真に集中して向き合いたいたちなので、真剣に写真を見ているときにあれこれと話しかけられるのが本当に嫌だ。
 そこで私は、ちょっと迷惑そうなオーラを出してその場を後ずさったのだけれど、主は私にぴったりと追従しつつ、そのひとり語りは止むことがなかった。
 主のたゆまぬ追従についに私の集中力も切れ、もう写真を見るのはやめてここを出ようか、と思いつつ他の写真に目をやると、ふと、その中の1枚からなにやら違和感を感じたのだ。

 その写真は、ある滝の一部分をスローシャッターで写したもので、黒い岩肌の間を細い滝が枝分かれして流れ落ちている。
 だが、何かがおかしい。
 その水の流れや、岩に引っかかった木の葉と枝の様子を注意深く目で追っていくうちに、私はある一つの結論にたどり着いた。
 滝が、下から上に向かって流れている。
 つまり、この写真は上下逆さまに展示されている。

 いらぬ作品解説をふっかけられて少々苛ついていた私は、主のひとり語りを遮って「この写真上下逆じゃないですか」と言ったのだ。
 すると主は一瞬驚いた顔をして、「あれ、そうかな、どうだったかな」と曖昧な返事。
 しびれを切らした私は、その写真の各部を逐一指摘して、やっぱり上下逆ですよね、と主に念を押した。
 「あー、ああ、そうかもしれないね。あとでちょっと調べておきますよ」
のらりくらりとした様子でそう主は言い、何を思ったのかそこでまた、ひとり語りの続きを話し始めたのだ。

 もう私は我慢ができず、急いでそのギャラリーを出た。

 驚いたというかショックだったのは、個展をやるような人が、個展のために選定したであろう作品のうちの一つが上下逆さまになっているのになぜ気付かないのか、ということだった。
 上下逆さまであることが分かってもそれを直そうともしないで、いらぬ自慢話を優先するそのスタンスにもあきれた。

 そもそも、どうして滝の写真展を開催したのだろう、と思う。
 滝が心底好きだから、滝の姿を記録に残しておきたいから、滝の魅力を皆に伝えたいから、そういう気持ちがあったからこそ、苦労して撮り歩いたのではないのか。
 数多の滝写真の中から、これぞというものを苦労して選定したのではないのか。
 自分の撮った滝が、どのような形で写っているのか、何度も何度も見直したはずだ。
 本当の「滝好き」であれば、苦労して撮った写真が、間違った展示のされ方をしていたら最優先で修正するだろう。
 しかしこの主からは、そういう「被写体への思い入れ」はついに伝わってこなかった。

 多分この主は、滝が好きなのではない。
 「滝を撮った自分」が好きなのだ。

 私は、多かれ少なかれ、被写体に想いを寄せないとシャッターを切れない性格なので、こういう主のスタンスは全く理解できない。
 被写体に思い入れもないまま、違う目的のために写真を撮り続ける人もいるのだ、と逆に感心した。

 しかし、
 写真をどのように撮るかは自由だ。
 写真をどのように見せるかもまた自由だ。
 私は好きではないが、好きにやればいいと思う。

 ただ、これだけは言っておきたい。

 被写体に思い入れのない撮影者は、被写体を大切にしようとしない。
 被写体への愛がない。
 自分の都合を優先して、被写体を力で操ろうとする。
 撮影地を自分の土地だと勘違いする。
 こういう撮影者が「かわいい自分」のためシャッターを切るたびに、さまざまな被写体と撮影地がじわじわと傷つけられていくのだ。
 そして、どこもかしこも撮影禁止場所へと変わっていく。
 
 現在進行形の話だ。
 それが気がかりでならない。

 
 ・・・長年腹の中でくすぶっていたことについて書けてスッキリしました。
 
 要は、被写体を愛して写真を撮ったほうが、皆が幸せになるのではないか、ということです。
 

 


8月22日 夏はどこへ行った 
EOS5D Mark IV + EF100mm F2.8L Macro IS USM + ストロボ

  朝から雨。夏が急にどこかへ行ってしまって、秋になるかと思いきや、梅雨明け直前のゲリラ豪雨キャンペーンみたいな天気に戻った。
 気温は下がったけれど、空気が常に水分を上限いっぱいまで含んでいるので、不快指数はかえって高くなった気がする。
 こんな日は、メシを撮って酒を飲んで寝るのだ。
 
 写真は、豚肉を焼いただけのもの。
 焼き方はけっこうこだわっている。

 


8月21日 

 新しい記事をアップしました。
  夏の柿其(かきぞれ)渓谷

 


8月20日 写真を良い悪いと批評する裏にあるもの
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

 写真について「良い」とか「悪い」とか「上手い」とか「下手だ」とか、昔から随分と議論されてきたのだけれど、結局のところ見る人がその写真を「好き」か「嫌い」かということについて論じていることがほとんどなのではないか、と思っている。

 人が絶賛する写真を見ても、いまいちピンと来ないことがある。
 コンテストで優勝した写真に首を傾げることがある。
 「あのラーメン屋美味いよ!」と人づてに聞いて、期待して行ってみたら大して美味くなかった、というのと似ている。
 どうしてそういうことが起こるのかというと、他人と自分では味覚が違うからだ。
 写真を見るセンスというのは、味覚の問題と全く一緒なのではないか。
 他人の口でメシを味わうことが不可能なように、他人のセンスで写真を見ることもまた不可能だ。
 自分の目で見て、自分の写真的味覚で判断するしかない。
 それがいわゆる「好き」か「嫌い」かということだ。

 様々な写真コンテストで審査員がいろいろ難しく論評したりしているのを見るが、結局その論評の核になっているのは、審査員自身の「好き」「嫌い」という写真的味覚にほかならないのでは、と思う。
 だが、個人的な好き嫌いの部分は綺麗にマスキングされて、あたかも写真には一般的な基準があるかのような論調で批評するコンテストがいかに多いことか。
 そういう理由から、私は写真のコンテストにあまり価値を感じないし、写真を出品しようという気も起こらない。
 自分の舌で「美味い」と思っているものを、わざわざ他人の味覚に委ねて批評される必要性を感じないからだ。
 その点、ブログは素晴らしい。
 美食からゲテモノまで、自分が美味いと思ったものをまとめて見てもらえる。
 コンテストに入賞して数枚が世間に露出するよりも、よほど大勢の人に自分の写真的味覚を理解してもらう手立てとなり得る。
 私がブログを大切にする理由は、そこなのだ。

 話が脱線してしまったが、要するに写真の批評において、個人的な「好き」「嫌い」を、「良い」「悪い」という一般尺度に置き換えて論じてしまうと、おかしなことになる。
 好きなものは好きと言えばいいし、嫌いなものは嫌いと言えばいい。
 そこでわざわざ一般的な「良い」「悪い」に置き換えて、「皆の意見」を装う必要はないのだ。

 写真に限らず、「良い悪い」を「好き嫌い」に戻すだけで、いろんな論壇がもっと平和になる気がする。
 
 ちなみに、コンテストや写真展の写真を、自分の写真的味覚で味わうのは好きだ。人の撮った写真を見るのは勉強になるし楽しい。 

 


8月19日 テーブルフォトについて考える
EOS5D Mark IV + EF100mm F2.8L Macro IS USM + ストロボ

 昨日、柿其渓谷から帰宅後、疲れてはいたがどうしても餃子が食べたくて、長ネギ餃子を作った。
 こういう時、長ネギ餃子は比較的手早く作れるのでありがたい。
 (※長ネギ餃子の作り方についてはこちら)

 クラクラするくらい腹が減っていたが、いただきますの前に食欲を押し殺し頑張って撮った。
 というのも、近ごろ億劫がってテーブルフォトを撮らずにいたら、かなりスキルが下がってしまっているように感じたから。
 テーブルフォトに限らず、ブランクを空けると撮影の勘が鈍ったようになって、数十枚撮ってからでないと定常運転に戻れなくなる。
 例えば、プロのピアニストが毎日10時間ピアノに向かうというのは、多分そういうことなのかもしれない。
 新しい技術を習得するのではなく、習得済みの技術を維持していくのにピアニストでさえ10時間必要なのだから、へっぽこカメラマンの私だって1日数回シャッターを切らなければスキルが落ちるのは当然だろう。
 だから、面倒くさいのだけれど、とにかく毎日シャッターを切ろうと思う。

 私の中でテーブルフォトの基準は単純明快で、「美味しそうかどうか」の一点に尽きる。
 写真を撮る時に必要なのは、被写体への愛(思い入れ)とリスペクトだと思っているが、思い入れやリスペクトをどういう形で表現するのかは難しい。
 でも、料理への思い入れやリスペクトは「美味しそうに撮る」以外に表現のしようがない。
 そこが単純明快でいい。

 たまに「食べログ」とかで、とんでもなく不味そうな写真をアップロードしている人がいるが、どうかと思う。
 プロの写真家でも、SNSに真っ黄色に色かぶりしたテーブルフォトを載っけてる人がいるが、プロとしての見識を疑う。
 写真の技術云々の前に、あれは料理や料理人に対して失礼だと思う。
 店に対する営業妨害にもなりかねない。
 どうしてその写真を撮ったのか、美味しかったから、見た目が美しかったから、料理に感動したから撮ったのではないのか。
 だったら最低でも、そういう思いが伝わる写真を撮るべく努力すべきと思うのだ。

 「伝わる写真」とかいうと、思考の袋小路にはまりそうになるが、料理写真が「伝わる」かどうかは簡単なことだ。
 それをやるかやらないか。
 その人の撮り手のしての在り方が、料理写真には端的に現れるような気がしている。

 


8月18日 ツバメ
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

 どこに行っても暑いので、涼を求めて「柿其(かきぞれ)渓谷」へ川遊びに行ってきた。川遊びというか、川遊びに興ずる人々を撮影しに行ったというのが正しいのかもしれない。
 柿其渓谷の写真は単一記事になりそうなので後日。
 帰り道、ツバメが電線に微妙な間隔で止まっていた。こんな日差しの下、黒い羽色ではさぞ暑かろうと思う。
 ちょっと日陰に行って涼めばいいのに、と思ったが、彼らにはあまりそういう避暑の概念はないみたいだ。
 そもそも彼らは日本に避暑じゃなくて避寒しに来ているのだから、むしろ暑さ上等なのかもしれない。

 70-200ズームの入院がかなり痛手になっている。
 キヤノンの修理センターがお盆休みになっているので、修理に着手するのは早くても週明けだろう。
 足で自由に動けるスナップはまだしも、崖っぷちに立って撮るような風景写真はやっぱり望遠ズームがないとかなりきつい。
 来週末にはなんとか退院してくるといいのだが。

 


8月17日 酷暑乾燥
EOS5D Mark IV + EF100mm F2.8L Macro IS USM + ストロボ

 全国的に凄まじく暑い日で、長野県も各地で軒並み30度を超えた。しかし湿度は低く、熱いけれどカラッとした風が吹いていて「ああ、なんか地中海周辺の風に似てるな」と思った。地中海周辺に行ったことないけど。日本から出たこともないけど。
 こういう湿度の低い日はいくら暑くても、汗っかきな私は気化熱で対処できるので、かなり暑さ耐性は上がる。
 ちなみに気温的に涼しい日でも、湿度が高い日は一気にバテる。

 野菜全盛期になって、味の乗った野菜に事欠かなくなったので嬉しい。
 ナスをレンチンして皮をむき、トマトは湯剥き、濃い目にとった茅乃舎だしで少し火を入れて、そのまま冷やす。
 丸のままのナスやトマトに冷たいダシが染み込んで超美味い。
 ナスやトマトは下手に切ったりせず、丸のまま食べるのが実は贅沢だと思う。

 


8月16日 台風一過
EOS5D Mark IV + Carl Zeiss Makro Planar T* 2/50 ZE

 台風10号が日本海を北に向かって遠ざかり、青空が戻る。
 数百キロも離れているのに、まだ突風が吹く。いかに今回の台風が大きかったかが分かる。

 このブログはかなり早い時期から、基本的に1記事につき写真10枚以上というスタンスでやってきた。
 なぜかというと、私自身が「ブログの1記事は写真展(個展)1回と同じ」と思っているからで、まとまった枚数が撮れなければ記事にしてこなかったし、また、撮影に臨む時は常にまとまった枚数を撮るように努力してきた。
 だから、必然的にブログの更新は1週間に1回か2回というペースになるのだが、こんな気まぐれに更新するブログを毎日見に来てくださる方もいる。
 せっかく見に来てもらったのに、いつも放ったらかしで申し訳ないな、と思ったのがまずひとつ。

 次に、撮ってはみたけれど枚数がまとまらない写真で、かつなんとなく捨てられず、ハードディスクの底に堆積していくものが結構ある。
 そういう写真を救済したいな、という思いがかねてからあった。

 また、記事のテーマ性を重視していることもあって、その記事の中に関係のない事をつらつらと書くのはあまり好きじゃないのだが、一方でなんとなく写真について考えたり、よろずのことに思索を巡らすことも多い。
 しかし、そういう思考を文字にしようとするとき、一つの記事に仕立てるには内容が薄いし、かといってTwitterでは手狭すぎて困っていた。
 そんなそこはかとない思いを文字に残す手段を探していた。

 それらの需要を一気に解決できるのではないか、と思いついたのがこの「日々の写真」なのだ。
 1日1枚、何らかの写真をアップして、そこに駄文を添える。
 ひと月分を1記事にして、順次更新していく。
 1ヶ月経てば、だいたい30枚くらいで、情報的にもそこそこの記事になるのではないか。

 おおこれは名案だぞ!と思ったが、よく考えたらそれこそが「ブログ本来の用途」なのだった。
 みんな言われなくても普通にやっていることを、私はいままでやってこなかった。
 ブログ歴11年目にして、初めてブログらしい使い方をしてみようということなのである。

 続くのか続かないのか、飽き性の私には不確定要素が多すぎて推定不可能だが、面白そうなのでしばらく続けてみたいと思っている。

【告知】
以下の過去記事を新規に移植しました。(全部現像と選定をやり直したので、旧記事とはほぼ別物です)

 

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