現代語訳『仁科濫觴記』(全文)

 
▼ 目次 ▼
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● 現代語訳『仁科濫觴記』― 序
● 現代語訳にあたっての方針

― 仁品王の記 ―
― 二ノ宮の記 ―
― 皇極ノ太子の記 ―
― 高明王と美濃殿の記 ―
― 「八面大王」追討の記 ―
― その他の記 ―

 


 

現代語訳『仁科濫觴記』― 序

 長野県大町市、及び北安曇郡に暮らしておられる方々にぜひ知っていただきたいと思い、これを書きます。

 『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』という古文書があります。
 大町市を中心とした北安曇地域を支配し、文化の礎を築いた「仁科氏」の出自と事績等を綴った歴史書です。
 そこに記された時代の範囲は、崇神天皇(3世紀後半―古墳時代)から嵯峨天皇(9世紀前半―平安時代初期)まで、約900年間に及びます。

 その中には、地名の起源や、「泉小太郎」「八面大王」など、安曇地域に語り継がれる伝説の由来と思われる事績の記録、仁科神明宮、若一王子神社、穂高神社をはじめとする神社創建の記録、若一王子神社の「流鏑馬」の発祥など、現在の大町市と北安曇の核心に迫る話が数多く収録されています。

 仁科濫觴記は完全な写本が2冊、抄録は数冊が現存しています。
 これだけの写本が時代を超えて、各地に保存されてきたという事実だけを見ても、仁科濫觴記がこの地方で、長らく重要な歴史書として扱われてきたことが明らかです。

 仁科濫觴記は古くからその存在が知られ、他の歴史書へ引用されたりしてきましたが、仁科濫觴記そのものが注目を集めることは長らくありませんでした。
 しかし、1972年(昭和47年)、郷土の歴史家、仁科宗一郎氏によって『安曇の古代・仁科濫觴記考』が上梓されました。
 それまでスポットが当てられなかった仁科濫觴記を、フィールドワーク等を通じ、細部に渡って検証していくという内容です。
 ただ、地元の小さな出版社が出したこの本は発行部数も少なく、現在ではもう絶版となっており、古本市場での価格は数万円レベル、入手することは非常に困難です。
 出版当時に手に入れ保存している場合を除けば、持っている人に見せてもらうか、大町市か周辺の図書館の蔵書をあたるしかありません。

 このような状況であるがゆえに、出版から50年が経とうとする今、この仁科濫觴記の存在自体が忘れ去られつつあります。これは危機的状況と言わざるを得ません。

 仁科濫觴記は、誰が、どのような経緯で、どんな目的をもって書いたのかは明らかではありません。そこに書かれた内容の真偽もまた、今のところ明らかではありません。
 しかし、そこに書かれたものが単なる作り話でないことは、安曇地域に生まれ育った者であれば誰しも直感的に感じ取ることができものです。
 仁科濫觴記は、さらにその内容が研究、議論されるべき価値のあるものと信じます。
 それを通じて、新たな歴史的事実が明らかになれば、大町市さらには北安曇にとって大変意義あるものになることでしょう。
 ひいては、地域復興の一助にも、地元住民のアイデンティティ形成の一助にもなり得るかもしれません。

 しかし、仁科濫觴記自体は古文体で書かれている上に、先述の『安曇の古代・仁科濫觴記考』はかなり学術的な記述が多く、平易な文章とは言えません。つまり、現代人がアプローチするにはかなり敷居が高いのです。
 気軽な気持ちで仁科濫觴記に接して、その読みにくさ故にさじを投げられてしまっては元も子もありません。
 研究や議論を目指す前に、とにかく仁科濫觴記とは何か、そこに何が書かれているのかを知ってもらうことが先決です。
 そこで私は、仁科濫觴記の全文を現代口語訳し、WEB上に掲載することとしました。

 以下に掲載したのは、『安曇の古代・仁科濫觴記考』の巻末に掲載された原文を、仁科宗一郎氏の見解を参考にしながら私自身が現代語訳したものです。
 まず、ここに現代語訳の全文を掲載し、別ページにおいて、それぞれの記述ごとに補足と解説を加えたものを掲載していく予定です。

 この機会に、より多くの方に仁科濫觴記の存在とその内容を知って頂き、研究、議論のきっかけとしていただけることを切に願います。
 

  2019年7月

 球わかば

※なお、Wikipediaの『仁科濫觴記』のページに概要が掲載されていますので、参考にしてください。


 

現代語訳にあたっての方針

  •  原典として仁科宗一郎著『安曇の古代・仁科濫觴記考』巻末に掲載されている原文と、同書内に引用されている原文を併せて使用した。
  •  現代語訳に際して、『安曇の古代・仁科濫觴記考』における仁科宗一郎氏の見解を参考にした。
  •  登場人物のうち、仁品王およびその子孫は、原文では敬語を用いて記述されているが、訳文では話の筋を優先するため、敬語表現は省略した。
  •  同一の事績について複数箇所に分散して記述されているものについては、話の筋を優先するため、必要に応じて一箇所にまとめた。
  •  難解な単語の読みがな及び補足事項については( )内に記載した。
  •  仁科濫觴記の筆録者による注釈は、《 》内に表記した。


     

    【仁品王の記】

      

    仁品王の降臨
     ここに仁科の開祖を探ってみると、崇神天皇の末の太子で、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(にほんおう)という方がいた。
     側近には保高見熱躬(ほたかみのあつみ)、武内山雄(たけのうちさんゆう)を、他に多くの臣下を引連れてこの地に降臨した。

     

    治水事業(泉小太郎伝説の起源)
     仁品王がこの土地の様子を見たところ、いたるところに数多く川が流れ、雲や霧が深く立ち込めて村落もはっきりせず、大雨が降り続く時などは、川の勢いは倍増して辺りは湖のようになり、民衆はひどく苦しめられていた。
     
     仁品王は民の苦しみを嘆き、家臣と話し合い、九頭子(くずこ)という者を河伯司(治水を司る役人)に任命し、山を削り岩を取り除いて川を拡げるよう命じた。
     そこで九頭子は民の中から剛健な男を集めた。
     集まった水慣れした多くの男らの中に、特に水中作業に秀でた日光(ひかる)という者がいた。
     九頭子はこの日光を白水郎(あまこ=治水作業団)の長に任じた。
     男らは川底の岩を取り除き、砂石をさらい流して川の拡大を成し遂げた。
     
     九頭子と日光が山征(さんせい=山を切り崩し川を拡げること)の計画を話し合い、男たちを集めて計画に従い彼らを導いたこの場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」という。
     また、山征を成し遂げたこの場所は「山征場(さんせいば)」、または「山征地(さんせいじ)」と名付けられた。
     そもそも「山征」とは、「山を伐る」がゆえに、「山を征伐する」という意味合いがある。
     
     春、3月下旬に作業を始め、秋の終わりまで川底の石を穿ち取り、土砂をさらい流し、川幅の狭い所は山を切り崩し流して水路を拡げた。
     この作業では白水郎の長、日光が武勇に優れていた。
     そうすること数年、その間にも大きな水害が何度かあり、農作物が被災することが少なくなかった。
     そこで、仁品王は遠音太川(とおだがわ)の両岸の高台に見張り小屋を建て、上総道臣(かずさみちおみ)と丹生子(にうのみ)という二人の臣に川を監視させ、民を災害から救った。
     《この上総道臣の小屋があった川の西側は「神戸(ごうど)」、丹生子の小屋があった川の東側は「難期(なんご)」と名付けられた。》
     この難期に山征場から通じる沢道があり、日光の母がこの道を往来して治水作業の進捗状況を仁品王に報告したことから、仁品王はこの沢を「婦人沢(おもさわ)」と名付けた。
     また、難期のことを「丹生子の村」とも言うようになった。
     
     山征場での治水も年月を重ねて作業が完了し、川幅が広がり水は滞りなく流れるようになった。
     原野も田畑となり、集落が増えて民は豊かになり、租税が多く納められるようになったことを喜び祝した。

     

    城館の建築と王町(大町)の発祥
     仁品王は城館建設のため土地の見立てをしたところ、そこが四神相応の地理にかなっているとして、城館を建て入城した。
     この城館は「御所」と呼ばれた。
     臣下は御所の敷地外に居舎を建てて住み、御所へと通勤した。
     また、この御所の門外に一棟の庁舎を建て「止歩可見庁(とおかみちょう)」と名付け、ここで民衆や臣下にかかわる事柄を会議した。
     仁品王は、遠方を眺望することができる止歩可見庁の南園に「光明亭」という三重の楼閣を建てた。
     仁品王は光明亭にたびたび上っては、民の暮らしぶりを眺めたという。 
     光明亭の東隣には「諍論園(そうろんえん)」という庁舎を建て、地頭らの集会所とした。
     諍論園の東の野原は「居止芝(いとしば)」といい、民の集会所とした。
     止歩可見庁の南方、光明亭の西方にあたる場所には「若宮の館」を建てた。
     九頭子は川辺に居舎を建て、水路に関わる仕事を担当した。
     日光(ひかる)は光明亭の別当職に任ぜられ、日光の母は居止芝に居舎を建て、若宮の館へと勤仕した。
     御所の敷地の外には農家が軒を連ねるようになり、この頃から、御所を「仁品王城(にほんおうじょう)」と呼び、城とその周囲をまとめて「王町(おうまち)」というようになった。

     

    天照大神の伝説
     旧(御所の旧記)によれば、天照大神がこの地方に降臨し、高い山から様子を窺ったところ、草樹は深々として大海原のようであった。
     民の姿を見ると、毛皮や木の葉を衣としていた。
     天照大神はこれを憐れんで、(木の)皮を取って布を織ることを指南(教え)した。これが「指南奴農(しなぬの=シナノ)」の国名が起こった元である。
     天照大神は樹の種を握り、この実が芽吹いて育った時、ここで神を崇め仁を垂れるようにと種を弾き飛ばして、国を治めるよう健南方刀(タケミナカタ)に命じ、野山を繰り越えて東へと下ったのだという。

     

    宮本神明宮(仁科神明宮)の祭祀
     仁品王が外出した際、杉の樹が生い茂った光々しい場所があった。
     仁品王はここをつぶさに見て、「この地は天照大神のお告げに見合う場所である」として神社を造らせ、天照大神を祀った。
     仁品王は、ここにたびたび参詣、礼拝した。
     
     「有明山」という名は、仁品王が天照大神の廟を建て「宮本神明宮」として崇め、毎月十六日に参詣したことに始まっている。
     仁品王は、八月の十五夜に神明宮へ夜を徹して参詣し、明け方に膳を神に捧げて礼拝した。
     礼拝の頃、西の山の上には満月が残り、東の空には赤みがさす雲がたなびき、夜がほのぼのと明け渡っていく様子を仁品王は見て、いまだ月がとどまっているその嶺を「有明山(ありあけざん)」と名付けたという。
     礼拝が終わり帰る頃には、太陽が東の山の峰に姿を現したので、その山を「戸開山」と名付けた。

     

    妃「妹耶姫」と「若宮一王子」の誕生
     仁品王が宮本神明宮から御所へと帰るその道に、日光の母と妹が連れ立って仁品王を迎えたので、仁品王はこの地を「妹峡(いもさわ)」と名付けた。
     それから日光の妹は御所へと召され、「妹姫(いもひめ)」の名を賜った。
     妹姫は御所に宮仕えするうちに仁品王の寵愛を受け、間もなく王子が誕生した。それが「若宮一王子(わかみやいちおうじ)」である。

      

    牧場の発祥と胡馬狩
     仁品王が外出した際、民が農作業で苦しんでいることを憐み、馬を使って農民を助けようと考えた。
     そこで仁品王は、里の長に雄と雌の馬を数頭求めさせ、野に放牧させた。
     これが牧場の発祥である。
     この時、馬を追い出し放牧した場所を「追出牧場」と名付けた。
     仁品王が里の長に「この馬はどこの国から求めたものか」と尋ねたところ、「海や川を隔てた遠い国から求めました」と答えたので、仁品王はこの里の長に「海川求馬(うみかわもとめ)」という名を授け、牧場の長に任命した。
    
     海川求馬が牧場を営み、馬の頭数が増えたことを仁品王が聞き、求馬に馬の捕獲を命じた。
     手輿籠(てごしこ)《手輿駕とも》に乗って、「追い出し放し場」の峡谷へと出かけた。
     昔は輿駕がなかったので、今の農家で使う「手もっこ」を作って乗せた。
     求馬は健男を率いて山に登り、手分けして下行(下山)した。この山を「手分山」と名付けた。 山の麓は「下行(げぎょう)」と名付けた。
     勢子らが馬を追い出して追いかけると、捕人は道具を使って馬を捕らえながら順々に馬を追い込んでいった。
     仁品王は輿を急がせて、手分山の麓に着くと石の上に輿を立て休憩した。ここは「立石」と名付けられた。
     それから、短い坂を上るのに、輿を持つ人夫がヤッサヤッサと声を上げて上ったことから「谷つ沢」と名付けられた。
     この野原で仁品王は昼食とした。
     ここから奥へは、春日守宮と鹿島鬼面は同行せずに残った。
     最奥の場所を「追詰止」と名付けた。ここから奥は山が険しく馬も立ち入ることができない。
     帰路の「谷つ沢の渡川」の東に「寝籠馬鼻(ねこまはな)」「籠胡馬(ここま)」がある。
     「胡馬沢(こまざわ)」と「大沢」は馬の冬籠りの場であった。
     仁品王は、ここでしばらく輿を休ませて、借馬の掟を制定した。この掟によって農家へ馬を貸し出したことで「借馬(かるま)」の村名が起こったと言われている。
    《海川求馬が借馬の業務を担当し、馬を農家へと貸出したほか、希望者には有料で譲渡した。後には川南にも牧場を作った。ここは艸(草)深い場所だったので「艸深牧(くさぶかまき)」と名付けた。この艸深牧にも冬籠りの馬屋があった。「古厩牧(ふるまやまき)」「艸深(くさぶか)」の地名はこれによる。》

     

    野分射馬(流鏑馬)の発祥と地名
     景行天皇の御世になると東国で反乱が起こり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の征伐のため派遣された。
     その時、仁品王は「この国にも東夷(とうい、あずまえびす)の軍勢が襲ってくるかもしれぬ」として、保高見熱躬(ほたかみのあつみ)に命じて壮士を集め、弓矢を作らせ、熱躬を指揮官として陣を張るための準備をさせた。
     
     仁品王は熱躬をはじめとした壮士を引き連れて宮本神明宮に参詣し、東夷征伐を祈念した。
     仁品王は弓矢を手にして「この征矢の止まった場所に陣を張るがよい」と熱躬に言い、弓を引き絞って矢を放った。その征矢は雷のごとく鳴り響いて飛んでいった。
     熱躬は男達を引き連れて、矢が飛んでいった方へ急いだところ、広野の中に放った征矢が刺さっていた。
     そこで、熱躬はこの場所に陣を張り、弓矢を飾って、健男を集めて「良等(郎等)等しく力を合わせ」東夷の襲来に備えた。
     この時から、この場所を「矢原」というようになった。
     またこの時、保高等々力(ほたかとどりき)の地名が起こった。
     等々力とは「郎等、等しく力を合わす」すなわち「良等々力合」という語の、上下を省略し「等々力」としたものである。
     仁品王は征矢の飛んでいった先の西側を「宝祚野(ほその)」と名付け、今上天皇の皇位を祝した。
     また東側は征路野(せじの)と名付けられた。
     そして、武内山雄(たけのうちさんゆう)、土師連雄(はじむらじお)、夜刃雄(やしゃお)に命じて12名の鉾を「#」のように井形に立てさせ、東国征伐の祈祷を行った。
     
     その後、「東夷は日本武尊がことごとく服従させた」という知らせがあり、矢原の陣営を撤収することになった。
     その際、仁品王は王子である若宮、妃の妹耶姫を始めとして臣下の者を引き連れて宮本神明宮に参詣し、神前に陣営の撤収を報告した。
     指揮官の熱躬をはじめとして、男達は馬上で戦装束に身を包み、矢を背負い、弓を握って拝殿の前まで来て下馬し、昇殿して勝利を謹んで祝った。
     また、騎乗で弓術と射礼(じゃらい=礼式としての射法)を行い、神の思し召しを慰めた。
     
     その翌日には、止歩可見庁から若宮の館、光明亭の庭で騎射(きしゃ=馬上から矢を射ること)の礼式を執り行い、大勢の見物客で賑わった。
     これが野分射馬(やぶさめ=流鏑馬)の始まりである。
     そもそも、野分射馬は矢原の陣を撤収した際の騎射を、良い手本として行われるようになったという。
     止歩可見庁で装束を整え、若宮の館と光明亭の庭で射礼を行う。それから難期にある丹生子の舎宅で休憩する。それから野分原(やさばきのはら)に到着して射法を行った。
     《「矢さばきの原」は、仁品王が矢を放ち「宝祚野」と「征路埜」が名付けられた時、そう呼ばれるようになった》
     それから宮本神明宮の境内に到着し、騎射の礼式をを行い、万歳を祝し、祭礼で今上皇帝の宝祚長久と民の安泰を祈願したという。
     
     麿掃除(まさけ)という者がおり、野分射馬の前日に道路の破損した所を修理補修、清掃することを職務とした。
     この者の住むところは「麿除の村」といった。
     麿掃除は仁品王の隊列の先頭に立ち、道路の不浄を取り除き、不審な者を問いただしたことから、「まつさき」ともいった。
     
     野分射馬の当日は、役に就いた面々は早朝に「止歩可見庁」に出勤する。
     朝食を済ませ、定刻になると「難期の尖先(なんごのとさき)」で太鼓を打ち鳴らし合図をする。
     それから射手が装束を整え並び座ると酒盃の礼があり、それぞれ三度盃を献ずる。
     酒盃の礼が終わると、弓を持ち矢を背負い騎乗して、止歩可見庁を出発し若宮の館を経て光明亭の庭へと行進して整列する。
     まず、首将が初矢を射る。
    《この矢は仁品王が矢さばきの原で射た征矢、すなわち「とおり射る矢」である。この矢の先にあたる山は「とおりい山」と名付けられ、木曽路が開かれた時に「とりい峠」と言われた。》
     一の将が矢を射る際には背の高い木を的とした。一の将の的木なので「一法木」という。ここから「一本木」の地名が起こった。
     一の将が後へ退くと、そこに二の将が乗り出て矢を射る。的は「矢野」の「矢作山」に立つ背の高い木である。
     二の将の射礼が終わり一の将の後方へと退くと、そこに三の将が乗り出て矢を射る。的は東方の背の高い木である。
     三の将が二の将の後方へと退くと、四の将から十二の将まで同様に乗り出て射礼を行う。
     射礼が終わると一列に並んで首将を先頭に難期へと向かう。難期の建物で馬から下りて休憩する。
      しばしの休憩の後、太鼓と鈴を先頭に行進する。射手は騎乗して列をなし、「矢さばきの原」へと到着すると射法射礼を行う。
     それから宮本神明宮の境内に到着すると、首将が中央に立ち、十二人の射手はその四方八方を取り囲む。
     各々心の中で祈念し、弓の弦を鳴らして万歳を祝す。
     それから神前へと進み、馬から下りて礼拝し、神前から退いて休息所に入り、装束を替えてから着座する。
     背の高い木を「箭法木(せんぽうぎ)」というのは、野分射馬の的となる木だからである。民の屋敷にある大木は「神の木」といって伐ることを禁じている。
     野分射馬を行う所は「射原」または「箭法原」ともいい、止歩可見庁を「箭原の庄(やばらのしょう)」ともいった。
     また、仁品王は居止芝(いとしば)の東にある高い丘に騎射を見物するための館を建て、妹姫、若宮の王子、乳母等を召し連れて野分射馬を見物した。
     この館は「中の館(なかのだて)」と名付けられ、また「中庄(なかじょう)」ともいった。

     

    地名「中房」の発祥
     仁品王は矢原の陣営跡地に居舎を建てさせ、熱躬を南方の鑑に駐在させた。その際、西の山から流れる沢を南北の境界とした。この沢を「中分沢(なかぶさわ)」と名付けた。

     

    矢野大象と矢作山
     大象という者がいて矢を作ったので、名を「矢野大象」といった。またその山は「矢作山」と名付けられた。大象は矢を作ることをその任とした。

     

    仁品王の北方巡行
     仁品王が北方に向け外出した。
     数名の臣下を引き連れて出発し、行く先の山野の様子を見たところ、3つの湖があった。
     このうち大きな湖は「檍崎(あおきざき)」、間の小さな湖は「中綴の池(なかつなぎのいけ)」と名付けた。《後に略して「なかつな」になった》
     最も南の湖は「海ノ口(うみのくち)」と名付けた。
     一行が檍崎の湖のほとりに出て休息し、四方を眺めたところ、湖の北には荒涼とした平野があった。
     また湖上を見れば、よどみに鯉やウグイが木の葉を散らしたかのように泳いでいた。
     出水岩釣(いずいわつり)という臣下が、この魚を釣って焼串にし、醴(あまざけ)とともに仁品王へ献上した。
     《岩釣は事代主(コトシロヌシ)の子孫で釣りを得意とした。池を檍崎と名付けたのは、事代主が釣りを得意とした(国譲り神話)ことになぞらえている》
     それから仁品王の一行は左の野原へ下り、沢を渡って東の峡谷へと移動した。
     時は午の刻(正午)になったので沢を渡り、ここで昼膳にしようと、臣下は杉の枝で仮屋をこしらえて仁品王を招いた。
     後にこの場所には杉の木が植えられ、人が踏まぬようにしたという。
     それから仁品王は野を越え川を越え、仮屋へと入って宿泊した。
     翌朝早く仁品王は行水をし、今上皇帝の宝祚長久を祈った。祈りの際、南を向いたその先にあった野原を「宝祚野(ほその)」と名付けた。
     この朝の祈りは、御所においても毎朝定例の儀式であった。
     それから仁品王は檍崎の北の野原へ出かけて四方を眺めた。《この野原を民衆は「親王原」と呼んだ》
     そして仮屋へと戻る頃には黄昏時となった。
     仮屋で夜通し家臣と話し合い、千手小郷(ちてこさと)と足長鹿(あしながしか)の両臣下に民衆や技術者を統率して、原野を焼刈りし田畑を開発する仕事を民衆に教えるよう命じた。
     
     この場所に、民衆たちがひとつの社を建立し「禁裡様公方様(きんりさまくぼうさま=天皇様お役人様)として崇めた。これは民衆たちが仁品王を天皇、従臣たちを朝廷の役人だと勘違いしたためである。
     後にこの社を「きりくぼうの宮」と言うようになった。

     

    地名「千国」「小谷」の発祥
     千手小郷と足長鹿は居舎を建てて住み、民衆に田畑を開発し農業を行う方法を教えた。
     小郷は川を越えた先の山頂に小屋を建てて眺望し、山麓に居舎を建てて住んだ。この場所を「いおり」と名付けた。
     足長鹿が住んだ場所は「鹿の庄」といった。
     
     小郷と足長鹿の両臣は互いに行き来して諸々の事柄について相談し、苦労を重ねつつ田畑を開発することにいそしんだ。
     
     「千邦(千国)」という地名は、この千手小郷の名前に由来している。
     「千手」の「手」に「小郷」いわゆる「阝(こざと偏)」を合わせると「邦」の字となる。
     邦は「くに」と読むことから、「千邦(ちくに)」と名付けたのである。
     また、小郷の「小」と足長鹿の「足」をとって「小足(おたり)」ともいった。さらにその土地は小さな谷が多かったので「小谷(おたに)」ともいっ た。
     
     越の国(新潟)の浜からの塩の輸送は、千手小郷と足長鹿が始めたことである。
     越の国の海沿いに諏訪社が多いのは、建御名方命(タケミナカタ)の子孫である千手小郷と足長鹿が、往来した土地に諏訪明神を勧請したからであるという。
     千手小郷と足長鹿の住居跡といわれる「鹿ノ庄」を「塩始末(しおじま)」というのは、村長の舎宅で塩を始末(処理)したからであると伝えられている。
     
     当時は、国境も郡境も定まっていなかった。
     おおよその国郡が定められたのは成務天皇5年2月のことである。
     また、崇峻天皇2年に国郡が改定された。
     用明天皇の御世に五畿七道が定まった。
     孝徳天皇の御世に年号の制度が始まり「大化元年」とした。その頃、村里の境界が改められた。
     また、全国が66の国に分割されれたのは文武天皇の御世である。
     元明天皇は女帝であり、和銅6年に初めて諸国の郡の名称を定めた。全国に627郡があったという。

     

    宮本神明宮の増改築
     宮本神明宮の建て替えと増改築を行った。
     これまでの建物では狭く、祭事を行うのに場所が足りなかったので、宮殿(みやどの)や廊を増築した。
     宮殿と廊、拝殿のほかに、新たに「后宮の殿(きさきのみやどの)」「一ノ宮、二ノ宮の廊」、その両脇に「臣下の詰所」、「御炊殿(みかしぎでん)」、「馬屋」等も増築された。
     これは、宮本神明宮への参詣や祭事、野分射馬の際に不自由がないようにするためであったという。

     

    地名「松川」の発祥
     仁品王は河西の山に一殿を築かせた。
     この山は御所において、仁品王がこの山の方角を向いて今上皇帝の宝祚長久を祈ったので、この山に建てた館を「宝祚谷の館(ほそやのやかた)」と名付けた。
     その山麓に居舎(いしゃ)を建て、鑑(見張り)を置いたことから「居舎坪(いしやのつぼ)」「鑑(かがみ)」「広表(ひろおもて)」の地名が起こった。
     また、「松川(まつかわ)」「待合(まちあい)」という地名は、遠音太川(とおだがわ)が増水した時に、往来できなくなった人々がこの辺りに集まり、川の水が減るのを待ったので「待川」の地名が起こったという。《時代が下って「松川」となった。》

     

    仁品王の薨去と葬送
     仁品王が御所の館をはじめ止歩可見庁、光明亭、中の館、若宮の館などの修理、増築、建て替え工事を行おうとした時、保高見熱躬は仁品王に意見した。
     仁品王はそれに激怒して、竹鞭を手に取って熱躬を打った。
     熱躬はこれに憤慨して都に上り、事実を悪く曲げて帝へと報告した。《この時、帝は景行天皇、都は大和国の柏原だった》
     熱躬の報告は帝の逆鱗に触れ「仁品の城や館を破壊せよ」との命が下された。
     仁品王はいわれのない災いに巻き込まれ苦悩することになった。
     仁品王はそれから余命いくばくもなく、薨去した。
     
     仁品王は宝祚谷の西の山奥、清浄な場所に陵(みささぎ)を築いて神葬された。
     そこに霊廟を建て、臣下は喪に服したという。

     

    廟の名称
    ・一ノ洞(いちのほら)《字は隠地蓬莱(いんちほうらい)と書く。「仙人の住まい」という意味という》
    ・小忌舎楼(おみやしろう)
    ・籠忌舎楼(こみやしろう)
    ・喪居屋(もや)
    ・子室供奉(ししつくぼう)《臣下の妻子らはここで妹耶姫と若宮にお供して葬送に加わった》
    ・奴従止岩(ぬすといわ)《奴婢、下僕はここで止まった》
    ・土の浮橋(つちのうきはし)
    ・盤奠石(ばんていせき)《または「礼拝石」とも》
    
     仁品王の霊廟を建てたこの場所は、宮本神明宮を建てた際に木を伐り出した場所である。
     ここに清らかな水の流れがあったので「清水山(しみずやま)」と名付けた。
     そこには沢があり「神明沢(しんめいざわ)」と名付けた。
     御廟はヒノキを使って建てられ、屋根もヒノキの皮で葺いた。

     

    若宮の死
     喪が明けた後、民衆の中には山林に引きこもる者や都を目指して帰る者もいた。
     王町に残った臣下は、若一王子(若宮)と妹耶姫につき従い世話していたが、程なくして若宮が亡くなってしまった。
     弟の二ノ宮はまだ幼いこともあり、母の妹耶姫をはじめ民衆は、涙ながらに御所の北の林に陵を築いて若宮を葬送した。
     この時からここを「若宮一王子の御廟」という。
     
     二ノ宮と妹耶姫には白山高根の子「伊勢」が仕えお世話し、若宮館に住み、今後の繁栄を待ちわびたのである。

     

    「熱躬郡」の発祥
     成務天皇の御世に諸国の郡境が定められた時、保高見熱躬が郡司だったことから、郡名を「熱躬郡(あつみぐん)」とした。
     その際、郡境の川名も「熱躬川(あつみがわ)」とされた。
     また「筑摩郡(つかまぐん)」「筑摩川(つかまがわ)」の名もこの時に付けられたものである。
     後に更級郡が分かれた際に「筑摩川」を「千曲川(ちくまがわ)」、「熱躬川」を「梓川(あずさがわ)」と書き改めた。

     

    【二ノ宮の記】

     

    妹耶姫の死と祖霊の祭祀
     二ノ宮が成長し、母君である妹耶姫(いもやひめ)が亡くなった。
     昔、仁品王と初めて会った妹峡(いもさわ)へと葬送し「妹耶姫の陵」として崇めた。
     その後、宮本神明宮の建替えの際、本殿の背後に一社を建て添えて、仁品王と妹耶姫、若一王子の神霊を祀った。
     この時も、清水の神明沢の山でヒノキを伐って建築した。
     
     二ノ宮が、先祖の居舎の跡地に宮を建てて祖廟を祀るよう臣下に命じたことから、臣下はおのおの一社を建立したという。
    ・上総ノ宮(かずさのみや)《神戸村(ごうどむら)イヅ》
    ・九頭宮(くずのみや)《宝祚野(ほその)》
    ・出水ノ宮(いずのみや)《檍崎(あおきざき)》
    ・土師ノ宮(はじのみや)《西山の村》
    ・白山ノ宮《若宮館の辺り》 
    ・子安ノ宮《居止芝(いとしば)》 
    ・井形宮《十二征路野(じゅうにせじの)》
     ・難期宮(なんごのみや)《丹生子(にうのみ)の村》
    《これら8か所は二ノ宮の指示によって臣下らが建てたものである。これらもみな清水山のヒノキを伐って建てられた》

     

    川合神社の創立
     水が流れる沢はやがて川となる。桧(ヒノキ)から「木」を取れば「会」となる。
     この社は遠音太川(とおだがわ)の両岸に建てられ、後に「川合神社」と名付けられたという。

     

    御田植神事の発祥
     川合神社創建の頃、御田植神事が始められた。
     仁品王の御世に耕作の作法を賜ったことに始まって、その頃にはさまざまな作物が実るようになり、農民たちは豊穣を喜んだ。
     宮本神明宮の前庭に大勢の農民たちが集まり、農業のまねごとをして遊び戯れたという。
     この年は豊作であったことから、これを吉例として毎年行うようにした。
     これが御田植神事の始まりである。

     

    出水岩釣
     出水岩釣(いずいわつり)という臣は事代主(コトシロヌシ)の子孫であり、仁品王に仕える際には漁をして魚を献上した。
     岩釣は「クツカケの端(はし)」という所に仮屋を建て置いて、川が増水する時期には仮屋に詰めて民を災難から救った。
     
     仁品王が出掛ける際には、川の先渡りの役を担当し、仁品王が湖畔で釣りをする時には、檍崎に居住して仕事にあたった。
     この土地にひとつの神祠を建てて事代主を勧請し、その子孫である海喜須(うきす)、止地主(とちす)という者が先祖の仕事を継承した。
     海喜須と止地主は魚・鯉を釣り羹(あつもの)にして、仁品王の御廟に膳を献じた。
     雪の時期や風雨の激しい時は、廟への道沿いにある石の上に膳を供えてハタボコ印を立て礼拝したという。
     この「膳盤を奠(てい=祀る)した石」であるから、この石を「盤奠石(ばんていせき)」という。また「礼拝石」ともいった。
     白鳳時代になり、祝部(ほうりべ)を置いて檍崎の地主に任じた。神事の際に漁をして魚串を神前に奉納するのはここからだと言い伝えられている。
     
     檍崎の湖の西を「蛭子末ノ原(えびすまのはら)」というのは、事代主(≒エビス)の子孫が地主であったことから名付けたのだという。
     また、湖の東南にある「迎ヒ神原(迎神原=こうじんばら)」、「神楽(かぐら)」という地名は、三日市場神明を勧請した際に起こったと伝えられている。

     

    白山高根
     白山高根(はくさんたかね)という臣は、仁品王がこの地へ降臨した時に先乗りしたことから、道路に関わる仕事を担当した。 

     

    土師連男
     土師連男(はじむらじお)は仁品王の師範の職であった。
     老後は西山の村の川西で閑居し亡くなった。
     子孫がおり、御所に仕えたという。 

     

    九頭子
     九頭子(くずこ)は手力雄(タヂカラオ)の子孫である。前には河伯の役職に就いていた。
     宝祚野の河辺に住んだ。
     
     遠音太川(とおだがわ)の「川除宮(かわよけのみや)」を「戸隠宮」というのはこの地方だけである。
     他所では水神を祀ったり「卯(う)の祭り杯」といって、卯の日に祭祀を行う土地もある。これは唐の禹王(うおう)を祀ったものであるのか考察すべきである。

     

    夜刃男
     夜刃男(やしゃお)は貢ぎ物を収受することを担当した。 

     

    愛宕炉火
     愛宕炉火(あたごおきび)という臣は、薪柴などの燃料と食糧のことを担当した。

     

    千手小郷・足長鹿
     千手小郷(ちてこざと)と足長(あしなが )の両臣は、諏訪の国から来て仁品王に仕え、民衆と技術者を統率する仕事を担当した。
     その子孫は湖北の村に定住したと伝えられる。

     

    【皇極ノ太子の記】

     

    皇極ノ太子の降臨と穂高神社の創建
     孝徳天皇の御世の白雉4年(653年)に皇極天皇の太子が降臨し、郡宮を建てさせた。《ここは保高見熱躬の住居跡で「保高神社」といった》
     天神地祇を祭祀させ、白雉5年(654年)の春になって、仁品の御所へと入城した。
     ここに仁品王の二ノ宮から数えて21代目の子孫に高根一族がいた。《高根という場所に居住したので高根を姓としていた》
     一族には四家《伊勢・出雲・隠岐・主膳》があった。
     太子はこの四名を御所に召して昔の事を報告させ、宮本神明宮、仁品王の御廟、若宮の館、光明亭、その他臣下の住居跡に建てた宮を見て回り、増改築を命じたのは白雉5年の2月上旬であったという。
     本殿、拝殿、鳥居は仁品王が神明宮を勧請した時、后宮は二ノ宮が勧請した時と同じ状態のままであった。
     その後、太子は臣下に命じて、先祖の廟を本殿の西に一社、東に一社を建てさせ、側近の臣下や近臣の千手、足長等を祀った。
     仁品王の御廟も堅固に建てられてはいたものの、白雉の頃にはことごとく破損していた。
     ゆえに、太子は古跡が絶えてしまうことを嘆き、増改築を命じたという。

     

    宮本神明宮への合祀と外末社
     仁品王廟を豊受太神宮として祀っていたものを宮本の本殿に移し、天照皇太神宮と相殿にして「宮本の神明宮」として崇めた。
    ・上総宮 
    ・土師宮
    ・出水宮 
    ・白山ノ宮 
    ・井形ノ宮 
    ・九頭ノ宮 
    ・居止芝ノ宮 
    ・難期ノ宮
     これらを「外末社」といった。
     また、若宮一王子の霊廟も増築させ、「若一王子大権現」として祭祀したという。 

     

    社家の人事
    ・神主(かんぬし)家
    ・祝部(ほうりべ)一家
    ・副祝部一家
    ・神前方十二家
    ・神楽方十二家
    ・乙女八家
    ・地守一家
    ・北の祝部一家、同乙女一家
    ・川西祝部一家、同乙女一家
    これらの社家は、太子の命を受けて定めた。

     

    高瀬川の発祥
     宮本神明宮の増改築工事も日を重ね、大工事が完了し、本殿ならびに内末十二社が完成した時、都から帝の御病気の報せが届いた。
     これにより太子は都への帰還を急ぎ、白雉5年(654年)6月の吉日を選んで、太子自らが遷宮の式を執り行ったという。
     これはかつて仁品王自ら宮本神明宮を勧請したことを良き例として行ったものだという。
     清水の神明沢の御廟へ奉幣(ほうへい)の使いを立てたが、その時節は雨が降り川が増水して、普通の人は川を渡ることができず、勇敢な男しか川を渡ることができなかった。
     太子はこの様子を見て歌を詠んだ。
    「遠音太河和 勇夫越来川会 高瀬浪波不能渉矣」
    (遠音太川 勇夫越え来る川会の 高瀬の浪は 渉れざりけり)
    (とおだがわ ゆうふこえくるかわあいの たかせのなみは わたれざりけり)
     太子の詠んだこの歌により、遠音太川を「高瀬川(たかせがわ)」、神社の名を「川会神社(かわいじんじゃ)」と称するようになったという。

     

    簀(すのこ)社
     不思議なことに遷宮の翌朝、「保高見の宮」の屋根が荒れ砕け、飛散していた。
     これは仁品王の神霊が怒ってそうしたのだろう、と皆は話し合った。
     太子がこの様子を聞いて「さては熱躬たちが帝へ奏上したのは讒奏(ざんそう=相手を陥れるため虚偽を加えて悪く報告すること)であったのか」と考えたという。
     その後、白鳳の時代に保高見の宮を改築した際にも屋根が壊れて飛散したので、簀を屋根代わりとして張っておいた。
     ゆえに、皆はこれを「簀宮(すのこみや)」と呼んだという。
     その後、神主たちは因縁のある保高見熱躬を他の臣下と同列に祀ったことを仁品王の神霊に詫び、穂高見の宮だけを片屋根にして「簀明神(すのこみょうじん)」と改名した、と言い伝えられている。

     

    孝徳天皇の崩御と太子の帰還
     高根伊勢は帰還する太子に同行して都へと上ると、帝が崩御され諒闇(りょうあん=服喪の期間)となったので、伊勢は都に留まり、国許へは諒闇となったことを報告した。
     宮本神明宮では外末社の建立も終わっていたが、一切の行事は延期とした。

     

    【高明王と美濃殿の記】

     

    太子の子息「宝祚谷殿」
     斉明天皇2年(656年)《この時、都は大和の岡本宮であった》、皇極の太子は密かに高根伊勢を都へと呼び寄せた。
     太子は自らの3歳になる子息に乳母と添守役として田村守宮(たむらのいもり)を付け、高根伊勢を国守に任命した。
     太子は守宮と伊勢の両名を子息の補佐役の臣に任じて諸々のことを命じた。
     高根伊勢は太子の供の任を解かれ、代わって太子の子息に随伴して仁品の御所へと入城した。
     この太子の子息を「宝祚谷殿(ほそやどの)」といった。

     

    高明王と安曇郡の発祥
     斉明天皇6年(660年)、宝祚谷殿は7歳となり、臣下らが随伴して都に上り「高明天王(こうめいてんのう)」という王号を賜った。
     その後、天智天皇7年(668年)、高明王は和泉守に任じられ、仁品の城主として下向した。
     
     その時、「仁品王城(にほんおうじょう)」は「日本王城」と読みが同じであるとして「仁科の城(にしなのしろ)」へ、皇極の太子の命により書き改められた。
     また、「熱躬」の字を取り除くため「熱躬郡(あつみぐん)」は「安曇郡(あずみぐん)」に、「熱躬川(あつみがわ)」を「梓川(あずさがわ)」に、「王町(おうまち)」は「大町(おおまち)」へと書き改めるよう命じられた、と「御所の旧記」に記されている。
     
     その後、天武天皇の御世に高明王が清原の都へ上った時、国司の任を帝から賜り、子孫は永く国政を司るように、との永宣旨を賜ったという。
     《「清原」というのは「岡本宮」のことである。ここは斉明天皇、天智天皇、天武天皇の三代の都だった。持統天皇、文武天皇の二代は藤原を都とし、元明天皇から光仁天皇までの七代は奈良に都を置いた。桓武天皇の延暦3年10月2日、奈良の春日から長岡京に遷都してから愛宕郡に都を置いた。これが現在の京である。》

     

    仏教伝来と寺院の建立
     高明王は学問を好み、都から道基(どうき)という博学多才の僧を迎えた。
     一棟の仏閣を建てて道基をその住持を任じ、諸尊の仏像を安置し、その左には聖徳太子の肖像画を掛けた。
     臣下らをはじめとして下々の子供たちに至るまで、手習いと学問をさせた。
     これが寺の建立の初めである。
     ここで学び、道基法師の弟子を経て僧になる者も少なくない中、道光(どうこう)、道円(どうえん)その他の弟子の僧らが、この寺の後々の住持となったという。

     

    川会神社の建て替えと政庁の改修
     天武天皇の白鳳2年(662年)、川会神社の総改築工事が決定した。
     白鳳3年(663年)の春に材木の伐採を、白鳳4年(664年)の春から工事を始め、白鳳5年(665年)に落成、遷宮を行った。
     伊勢国から一人の神人を迎え神職を司らせ、神主をはじめとした社家の面々に祭祀と式典の作法を伝授させた。
     また、止歩可見庁、光明亭、若宮の館、中の館等の修理も行った。
     6月の両日には野分射馬、2月には御田植祭、9月16日には新嘗祭、毎月3日の例祭、その他の祭事も神主を中心として、神人もこれらを共に執り行った。

     

    社領の寄進と地名
    ・神田
    ・祝地
    ・神戸民(しぶたみ)
    ・御師沢(おしさわ)
    ・潤田(うるうだ)
    ・北祝部(きたのほうりべ)
    ・御師埜(おしの)
     この他、村の地頭から寄進された土地もあった。

     

    三日市場神明宮
     三日市場神明宮は、白鳳年間に宮本神明宮を改築する際の仮屋を移築して勧請したものである。
     北の祝部が社職を務め、毎月3日に扉を開き祭祀を行った。
     その祭に民衆が群れなし集って市が開かれた。ゆえに、「三日市場の神明」と人々が呼んだことから地名となった。
     この場所は昔、仁品王が北方巡行した際に昼食を摂った御座所であった。
     
     ここの人々は「三日市場神明宮は宮本神明宮よりも一年早く勧請した宮だ」と言うが、それは大きな間違いである。もっとも、宮本神明宮の仮屋なのだから「一年前にできた」と考えるのも無理はないが。
     
     仮屋を移築する際、鹿庄の人々がそれを出迎えた檍崎の湖東を「迎神原(こうじんばら)」という。
     人々はこの場所から竹原《笛太鼓による神楽》を演奏しながら行進したので、ここの地名を「神楽(かぐら)」としたという。
     それから三日市場神明宮までの間を「大内山(おおうちやま)」と名付けた。これは神明宮を「大内山(天皇の御所内裏)」から迎えたという意味合いからそう名付けたと伝わる。

     

    高根伊勢の死と葬法  
     養老元年(717年)、高根伊勢が亡くなった。
     道基法師が導師となり、弟子の道光をはじめ大勢の弟子らに指示して、「大陵の原(おおみささぎのはら)」に葬場を構えた。
    《「大陵の原」という所は仁品王陵へと向かう原で、高瀬川の南側、西の山に続く場所で、山に岩穴がある。》
     葬場は、門を建て、四方に垣を廻らせ、中央に日覆いを建て、その下に棺を置いて葬法を修する。
     ここからこの原を「仏陵原(ほとけみささぎはら)」と言い、葬場の垣とする木を伐った場所を「垣の木(かきのき)」という地名にした。
     後代になって「陵」の字が省かれ「大崎(おおさき)」「仏崎(ほとけざき)」などと書き改められた。
     また、東の山手に「大陵包纏原(おおみささぎくるみはら)」いう場所があるが、「大笹胡桃原(おおささくるみはら)」と書き改められたという。
     山を「洞山(ほらやま)」または「霊場」とも言う。洞山というのは「蓬莱(ほうらい)」という意味だという。
     死ぬことを「仙去」と言うのは、洞山へと送った死者が仙人と化す、という意味であるという。

     

    高明王の檍崎での遊漁(高明親王檍崎遊漁之事)
     高明王が出水海喜須(いずうきす)を呼んで檍崎湖畔での魚漁を見物することを命じたので、海喜須はその用意をした。
     池頭の王殿嶺(おうどのみね)《仁品王が北方巡行の際に休憩した場所》に仮屋を掛け、魚が現れる時期を報告したところ、高明王は衆臣を引き連れて檍崎を訪問した。
     
     遠地主(とちす)《海喜須の子》が道の中程まで出迎えた。
     ここからこの土地を「トチス出迎場」と言った。
     海喜須は漁具を携えて迎神原へ出迎え高明王に拝謁し、それから湖畔に着くと網を投じて漁を行い、高明王を楽しませた。
     湖東の水際の「白浜」という平らな砂地の上で、魚の焼串を肴として高明王に酒を勧めた。
     ここで高明王は水面の風景をとめどなく詠嘆し、つまり「始終口外(しじゅうこうがい)」したので、ここを「ししゅの鼻」と名付けたのだという。また、この出崎の形が獅子の鼻に似ていたので「獅子の鼻」というようになった。
     それから高明王を王殿嶺の仮屋へと招き昼の膳を献じた。
     休息の後、高明王は衆臣とともに釣りをして楽しんだ。《ここは腹赤魚、鯉、鮒の類が木の葉を散らしたように数多く泳ぐ所だった》
     黄昏時になり、高明王は蛭子末の原の海喜須の居舎に入り、日が暮れてから帰路についたという。
     高明王が釣りをした所は「魚出の崎(うおでのさき)」と名付けられた。また春分になると湖上に氷が張り人々がその上を往来したので「大渡崎(おおどざき)」とも言い、「青戸崎」と書くこともあった。
     ここで源重之が歌を詠んだことがあるとの言い伝えもあるという。やはり、このことを知る人に尋ねてみるべきだろう。

     

    三宝荒神堂の建立
     養老2年(718年)の春、御所の敷地の丑寅(東北方)の隅に一棟の閣を建てさせ、道基法師に命じて仏法の諸神を安置させ「御祈祷所(ごきとうじょ)」と名付けた。
     後には「道基法師の三宝荒神堂(さんぽうこうじんどう)」というようになった。

     

    森城の築城と「木崎」の発祥
     養老2年(718年)、高明王が64歳となった時、高明王の子息である美濃殿(みのどの)は29歳となっていた。そこで、高明王は隠居することを考えて、新たに一つの城を築造した。
     
     養老2年の秋から工事を始め、養老4年(720年)の春に工事が完了した。
     この城は御所を守護するために築いたので「守(もり)」の字の読みから「森城」と名付けた。
     城の北は湖水、東は湖水の流れが深く、西には沼があるという要害無双の城地である。
     西方には「築地の鼻(ついじのはな)」《沼から湖に繋がる山の出崎》、東方には「鳩尾渡(きゅうびっと)」《湖の流出口》、「端崩淵(はたほれぶち)」から少し下寄りの西方に沼堀があり門があった。ここからは屋敷町である。
     館と屋敷町の間にも堀があり、湖から西の沼へと堀を通している。
     大手門の外は林となっている。
     林の南は城の前となっていることからそこを「城前(きざき)」と名付けた。
     城前の村から水の流れが三本に分かれた所に3本の橋が連なって掛かっており、越の国へ向かう牛馬道通りとなっていた。
     築城工事が完了した養老4年3月、仁科和泉守高明公(高明王)は徒歩で森城へと移った。この時、高明王は66歳であった。
     森城へと移ったことによって、高明王は「森和泉守殿(もりいずみのかみどの)」と呼ばれた。

     

    美濃殿と衆臣
     美濃殿は国司と城主の任を和泉守殿から譲位され、御所の館へと移り国政を司った。
     
     高根出雲を長として、止歩可見庁に衆臣が出仕して国政と諸事を取り計らった。
     止歩可見庁は年番(1年交代)で務めており、この年は出雲の番であった。
     若宮館、中之館、止歩可見庁の外に屋敷町があった。
     
     田村守宮は森城の屋敷へと転居し、その子息である「田村玄馬(たむらげんば)」が御所に勤仕した。
     
     高根隠岐も森城の屋敷へと転居し、家老職となった。
     森城が完成してからは四臣(伊勢・出雲・隠岐・主膳)に田村家を合わせた「五家」は各々家老職となり、仁科城と森城に交代で勤めた。
     また、村々の地頭は年番あるいは月番で交代した。

     

    高明王(和泉守殿)の死
     和泉守殿は百十余歳となり、天平神護元年(765年)の晩秋から体調が思わしくなかった。
     そこで衆臣が相談し、森城の館は水辺で寒さが厳しい土地だとして、和泉守殿に御所の館への転居を勧めた。
     御所の館において、美濃殿をはじめ諸臣らが高明王を看病したがその命には限りがあり、天平神護2年(766年)4月、和泉守殿は亡くなられた。
     
     東陵の霊場で葬儀を執り行い、包纏(くるみ)を取捨ててから北の沢奥にある清浄な場所を見立てて葬送した。
     その時、大陵に一棟の寺を建て、道円法師を住職として和泉守殿の菩提を弔ったという。

     

    美濃殿の嫡男「一若殿」
     美濃殿が38歳の時、嫡男が誕生した。名を「一若殿(いちわかどの)」といった。
     高明王が亡くなった年には31歳となっており、祖父高明王の名を取って「和泉守殿」と名付けられた。
     
     美濃殿が72歳となり、中陰(四十九日法要)が済んだ後、和泉守殿に国司と城主の任を譲位して美濃殿は森城へと転居した。
     臣下や地頭、村長などは先例のとおり交代で務めたという。

     

    【「八面鬼士大王」追討の記】

     

    鼠賊の出没
     神護景雲の末から宝亀年間にかけて、こそ泥が出没して民家の壁を壊したり倉庫に忍び入って雑物財宝を掠め盗っていた。
     そこで河南に小城を築き鑑を置いた。
     この城へは美濃殿の次男で和泉守の弟である仁科明清殿に田村玄馬《田村守宮の孫》を差し添え、その他に壮士が十数名付き従った。
     この城を「宝祚谷の城」と名付けたという。
    《宝祚谷殿は森城を築き三代にわたって世が治まり、めでたき名が成ったので、明清公も「宝祚谷殿」と名乗ることにした》

     

    八面鬼士大王の台頭
     宝亀8年(777年)秋8月、和泉守殿は河南の地頭を宝祚谷の城内へと召集し、盗賊の巣窟を探し出すよう指示した。
     その方法は、高い山の峰に夜中に登って、火を燃やしているところを見つけ、夜が明けてからその場所を確認すれば巣窟が明らかとなるだろうと教えられた。
     地頭はその旨を指示し、密かに熟練の者たちを峰々へと登らせた。
     
     ある夜、有明山の麓から火明かりが一つ出ているのを見つけた。
     これに見当を付けておき、翌朝、地頭らが各所の峰々からその火明かりを見た者たちに案内させ、聞き込みしつつその場所に向かった。
     すると、土に穴を掘り石で補強し、上部は細長い石をを並べて芝で覆い、雨漏りしないようにした隠れ穴があった。
     盗賊らはその夜は帰らないと見えて、火を焚いた跡だけがあった。
     
     地頭らの報告により明清殿からその旨が和泉守殿へと伝えられた。
     衆臣らは会議して、これは鼠賊の隠れ住んでいる巣窟に違いない、としてそこを「鼠穴(ねずみあな)」と名付けた。
    《こそ泥する者を「鼠」とあだ名で呼んだ。「鼠賊」とは「すり」と読む字である》
     
     村の入口の辻などに小屋を掛け、夜番が見廻ってぬかりなく用心し、村長は末々の者に至るまで注意するよう促した。しかし、賊はその隙を窺っているのか、とにかく盗難被害の訴えが止むことはなかった。
     
     日が経って、中分沢の山奥には盗賊が隠れ住み、後々に8人の首領ができて人民をひどく悩ませた。
     賊は山から出る時に顔を色とりどりに塗って「八面鬼士大王」と名乗り、手下を引き連れて強盗を働いた。
     
     そこで和泉守殿は家臣の等々力玄馬《三代目の田村守宮が改名し「等々力玄馬(とどりきげんば)」といった》を使者として都へ遣わし、賊の悪行について訴えたところ、将軍家から鬼賊追討の宣旨を賜り、玄馬亮(げんばのすけ)は都から帰郷した。

     

    八鬼退治の任務分掌と地名(八鬼退治手分之事)
     延暦8年(789年)2月上旬、鬼賊追討の宣旨が下ったので、筑摩安曇両郡の地頭を召集し、和泉守殿、美濃殿、宝祚谷明清殿が止歩可見庁へとやって来た。
     四臣ならびに玄馬亮、その他の衆臣、地頭の面々が協議して、八鬼追討の任務分掌を決定した。
     
     南の方を「追手(おって)」と定め、大将、田村守宮《等々力玄馬亮の子》に壮士12名を付け、健男5名を1組、5組を一手とした。 そこへさらに地頭2名、人夫10名を付けた。
     追手は5手、合計185名のほかさらに増勢があった。
     追手は宝祚谷城の北、保高神社の原に集結後、「空水川(からすいがわ)」の北から繰り上がる。吝(りん)を含んで声音を立てぬようにする。きこりの通る道を登って「中分沢(なかぶさわ)」の山奥へと越えて、山や谷の随所を狩ることに決めた。
    《この場所は軍勢を集めるため貝を吹き、人員を揃え、手順を決め、吝を含んで事を成したので「貝吝場(貝梅城)」と名付けた。また軍勢が繰り上がった山の尾であるから「繰尾山(くりおやま)」の名が起こり、「空水川」の名もこの時から言い習わすようになったという。》
     
     北の手を「搦手(からめて)」と決め、大将には高根出雲を任じた。
     壮士5名健男5名を一組とし、5組を一手として5手を組織し、地頭と浮人10名を付けた。そこへさらに増勢した。
     軍勢を集め川会神社の下で高瀬川を渡り、神戸(ごうど)の原で太鼓を打ち軍勢を揃える。その後、手分けして有明山、中分沢入り北方の山の峰に登り、追手の軍勢が山から下る時を見計らって合流することとした。
     
     大力屈強の若者200名余りは、中分沢山の南の「蔓尾山(つるおやま)」の林中に落とし穴を多数掘って、その上に柴草を掛けて穴を隠し、捕縄を用意して隠れ待ち、賊を生け捕りにさせることとした。
    《これを「蔓尾山の待居」という。地名の発祥である》
     これも大将には四臣のうちの一人をあて、地頭その他、人夫数十名を付けることに決めた。
     
     以上のとおり協議が決したが、さらに念入りに協議を重ねた。
     
     賊追討の時期は当月下旬とした。
     賊を狩ること公表すれば賊が逃げ隠れてしまうかもしれないので、「山野にイノシシやシカが多く、作物を荒らすので猪鹿狩を行う」と申し触れて人員を集めよ、との達しがあった。
     
     地頭の面々はそれから村々へと帰り、村長、健男らを集め、近日中に猪鹿狩があるとして人員手配の準備をし、待機したのだった。

     

    八鬼の賊降伏のための祈祷(八鬼ノ賊降伏祈祷之事)
     道基が遷去(亡くなった)した後は、道円法師が祈祷の法主(ほっす)を務めていた。
     「道円、道光、常光の三僧を御所へと呼び鬼賊降伏の祈祷をさせよ」との達しがあったので、三僧はその命に従い、荒神堂において祈祷の準備を進めた。
     居丈の剣(人が座った高さの剣)を造らせ中央に立て、三重にしめ縄を張り、諸明王の尊像、四天王、薬師の十二神将などを安置した。
     
     三僧とその弟子に至るまで、17日の間苦心して祈祷を修した。 
     その効があったのか、鬼賊らはたちまち滅亡した。
     
     この剣は祭壇を解いた後に、森城の鬼門除けとして戸隠権現に奉納することとし、城の北東(鬼門)方向、高根山の山頂に剣を納めた。
     この時この山は「権現山」、剣を納めた場所は「頂が峰(いただきがみね)」と名付けられたという。

     

    鬼賊追討前夜
     延暦8年(789年)2月下旬、かねてからの取り決めのとおり、前の晩から「高かがり山」と南方の「峯火場」で合図の火を焚かせた。
     「ややこれは明日軍勢を揃えるのだな」と思った地頭の面々は健男たちを集め、鬼賊追討の準備を急いだ。
     
     等々力の田村玄馬亮は鑑の庁舎の留守居とし、息子の田村守宮《25歳》が大将を務めた。
      
     大将田村守宮が壮士や役職の人員を引き連れ貝場の陣所で法螺貝を吹かせると、地頭の面々や健男らの集団が列を整えてやってきた。
     大将は団扇を手に床机に腰掛け、壮士は采配を持って大将の両側に並んだ。
     大将が地頭らに会釈すると、地頭らは各々承知してそれぞれの組の詰所へと帰った。
     健男らはそれぞれ竹槍、斧、まさかり、柄物などを用意し、人夫は兵糧とその他の用具を背負い、案内人を先頭に山奥を目指して登りはじめた。
     
     河北の人員は、未明に止歩可見庁矢原庄に集合すると、和泉守殿がお出ましになり、四臣も陣装束に身を包み庭に並んだ。
     和泉守殿が会釈すると高根出雲がそれを謹んで承り、地頭の面々を集めて諸事を伝えた。
     地頭らは承知して、それぞれの組の健男、人夫らが各々準備して、出雲を先頭に神戸の原へと急いだ。
     
     高根隠岐もかねてからの地頭らとの取り決めどおり、健男その他の人員を引き連れ、穴掘り道具を人夫に持たせ、待尾を目指して急いだ。
     
     高根伊勢は御所の留守居を担当し、御所の館、若者の館、中の館を臣下を引き連れて見回った。
      
     鬼賊の巣窟に攻め入るのは翌朝明け六つ(薄明の頃)と決め、追手は午の刻下(13時頃)から山を登り始た。搦手は申の刻下(17時頃)から進軍を開始した。
     宵の薄明かりがあるとはいえ、山の中にはおびただしい残雪があったので、地理に詳しい山賊を先頭に岩を伝い木の枝に取り付いて登っていった。
     そのうちに月が出て空は煌々と明るくなり、この上なくはっきりと見えるようになったので、難なく賊の巣窟の奥の峰へと登ることができた。
     そこでしばらく休息し兵糧を使い夜が明けるのを待った。
     
     待尾では夜半までに落とし穴の準備が完了したので、人夫らを宝祚野原へと引き上げさせ、地頭と健男らは林中に隠れて今か今かと決行の時を待った。
     
     高根隠岐は中分沢の北方、鼠穴の原に陣取って遠見して警戒した。これは賊が中分沢から北へ逃げないようにするための手立てであった。

     

    鬼賊追討決行
     星の光が消え東の空に赤みが差し、人の顔がはっきり見えてくる頃、大将の田村守宮は今だ、と法螺貝を吹かせ、鬨の声を上げさせた。そこに搦手も太鼓を打ち鬨の声を合わせた。
     鬼賊らはその鬨の声に驚き目をこすりながら巣窟から出て見てみれば、辺りの山の峰々に人影がないところはなく、男たちが巣窟を目指して下ってくる。 
     鬼賊らはこれを見て肝を潰し「この間、鹿狩りをするとは聞いていたが、さては我等を狩ろうということか」とうろたえ逃げ出した。
     
     8人の首領は逃げられないと覚悟して、周囲をを睨んで、近寄れば切りつけようと身構えた。
     その勢いを健男らは恐れて首領らに近づく者はなかった。
     そこに壮士を引き連れた田村守宮が進み出て、大声で「鬼人どもよ確かに聞くがいい。お前たちが盗みを働き民家の倉庫を壊して財宝を奪い取ったことは都にも聞こえている。このたび勅命の宣旨よってお前たちを成敗するところとなった。しかし、その罪は重いとはいえお前たちは未だ人命を害したことはない。速やかに降参して戒めを受けるのならば命だけは助けてやろう。もしも手向かうことがあれば、手下の賊に至るまで一人の命も助けはしない。その返事やいかに」と述べた。
     8人の首領は互いに顔を見合わせると、中でも老齢の首領が前に進み出て、太刀を投げ出し考えた後、地に両手をついて「貴君のお言葉は全て承知いたしました。我々の命はともかく手下の者共はお助けください」と言った。
     首領全員が腕を背中に回し「縄をお掛けください」と覚悟すると、「神妙である」と壮士らが近づいて首領らに縄を掛けた。
     残りの手下の賊5、6人も健男が近づいて縄を掛け引き立てた。
    
     8人の首領らは健男らに縄を持たせ、地頭らが警護しながら待尾を目指して山を下った。また、岩の間や木のウロ、柴の中に隠れていた手下の賊10人あまりも探し出し捕らえた。
     合図の法螺貝を吹かせ搦手にも太鼓を打ち、なおも岩の間や木陰を探して麓を目指して山を下った。
     
     追手の大将田村守宮が壮士らとともに待っていたところに、搦手の大将高根出雲が壮士らを引き連れ下ってきた。  合流して縄を掛けた賊を先頭に、守宮と出雲がしんがりとなって下った。
     
     高根隠岐の手によって追い捕らえたものと待尾の落とし穴で生け捕りにしたもの40人余り、合わせて約60人の手下の賊と8人の首領を先頭に引き出し、空水川の北の「繰尾原(くりおはら)」にて勝鬨の声を三度上げた。
     
     すぐに使者を仁科の御所と宝祚谷の城へ遣わし鬼賊捕縛を報告した。
     それを聞いた明清殿は玄馬亮に諸事を申し渡し、馬を出して帰城した。
     明清殿は早速使者を出して、鬼賊降伏の旨を都へと申達した。
     
     等々力玄馬亮は地頭の面々を集め、8人の首領を1人ずつ預け、人夫に申し付けて首領らを厳重に見張らせた。
     また玄馬亮は「手下の賊はそのまま野原に戒め置いて農夫に交代で見張りをさせよ」と申し付けた後、健男らを呼び寄せ二日間の苦労に感謝し、罪人は交代要員に任せて帰宅するよう申し渡した。
     
     田村守宮と壮士3人を残し、玄馬亮は出雲と隠岐、壮士たちとともに明清殿の館、鑑舎を目指して帰った。
     そこで夜通し酒宴を催した。酒宴には明清殿の出座もあって、夜が更けるまで話に花を咲かせた。
     鶏鳴の頃になって明清殿が寝殿に入ったので、皆も臥所(ふしど)へと入って就寝した。

     

    鬼賊への量刑判断
     夜が明けた延暦8年(789年)2月25日、「細萱(ほそがや)」の鑑舎《「宝祚」の字は帝への恐れがあると「細」の字に書き改めた》において、御所から呼び寄せた高根主膳、高根伊勢の2名と玄馬亮、高根出雲、高根隠岐、田村守宮らが明清殿の御前において協議を行い、賊に対する刑罰を決定した。
    
     協議の結果、8人の首領のうち頭領については死刑、その他の者は耳を削いで国境まで連行し追放すべきである旨の触れを回した。
     
     するとそこへ、「嶌立(しまだち)」の地頭たちがやって来て、「賊による被害に遭った者共を召し連れて、お願いすべきことがあり参りました」と申し出た。
     玄馬亮が立ち上がって「願いとはいかなるものか」と尋ねたところ、地頭の面々は一同に「この者どもは賊の被害に遭って苦しんだ者ばかりです。8人の首領をお渡しくださるようお願いいたします」と言った。
     玄馬亮が「大勢の申し出ではあるが、すでに賊へ刑罰は申し渡している。賊の巣窟において守宮殿が申された言葉を地頭の面々も聞いたであろう。君子に二言はない」
     「しかしまだ細かい決めごとがあるゆえ、地頭一人を残し、他の者は退出するように」と申し付けたので、地頭らは皆畏れをなし門外へと退去した。
     
     玄馬亮は鑑舎の奥に入ると四臣と相談した後、残った嶌立の地頭を奥へと招き入れた。
     主膳が申し渡すには「刑罰について言い渡した以上、それを変更することは難しい。しかしながら、罪を軽くすることに支障はない。よって頭領の死刑は免じ、首領全員を同じ刑罰で処せ。手下の賊は片耳を削ぎ、首領らは両耳を削ぐようにせよ」 とし、さらに、
     「手下の賊は、嶌立の地頭が一人で引率し、健男らに引かせて嶌立へと連行し追放せよ。首領らは地頭二人が引率し、恨みがある者に連行させよ」
     「嶌立へと連行して追放すれば刑罰の執行は完了する。その後は地頭ら三人の思うようにせよ。本日中に処罰するよう急げ」と。

     

    刑罰の執行(八面鬼士并鼠賊等刑罰之事)
     鬼賊への刑執行があるとして諸々の役人は賊を捕縛して「置し原《貝梅城の西》」に集合した。
     巳の刻(午前10時)になる頃、田村守宮が壮士を連れてやって来て床几に腰掛け、壮士がその両脇に並んだ。
     
     守宮が8人の首領と手下の賊らに言い聞かせるには、「首領らは手下を集めて巣窟を作り、民家の倉庫を破壊して財産を掠め盗った。その罪は甚だ重いものである。とはいえ、国司より憐れみを賜り、耳削ぎの刑に処して国の外への追放を申し付けるものである」と。
     守宮はその旨申し渡すと、検使として壮士2名を残し鑑舎へと帰っていった。
    《「耳削ぎ」の刑は、青竹を割って耳を挟み、竹を残してその外側を削ぎ取る。削ぎ口には血止めを付けて止血する》
     
     下役人が準備をし耳削ぎをすると、それを見た恨みある人々が「我が削ぐ己が削ぐ」と騒ぎ立てた。
     70人あまりの鼠賊と8人の首領に至るまで耳削ぎが終わり、戒めの縄はそのままに健男らに引立たせた。
     地頭の面々が警護して「長尾上野の原」を過ぎ、放場を目指し連行した。
     
     検使は刑場に留まって、刑場を始末する人夫に「削ぎ捨てた耳や血に染まった砂や石は一つの塚に築き、見苦しい物があれば焼き捨てよ」と申し付け、鑑舎へと帰った。
     その後、通る人はここを「耳塚」と言い習わし伝えた。

     

    鬼賊の追放と赦免
     鼠賊らは「島」へと連行し、戒めてから縄を解いて追放した。
     
     二人の地頭に引率され連行された8人の首領は、恨みある人々が一緒に縄を引いていることもり、ゆっくり歩いたことで、手下の賊の行列からは2、30町(約2、3キロメートル)遅れていた。
     2名の地頭はそれから道を変え、西の山際へと首領らを連行した。
     そこで、大勢で口々に「これまでは表向きの処罰だ。これからは我らの恨みを晴らす。天罰と思い知るがいい」と言って、掘っておいた大きな穴に首領らを突き落とし、その上に石を積んで殺してしまった。恨みある人々は清々した心持ちになったのである。
     
     この時からこの山を「八鬼山(やきやま)」と言い習すようになった。
     
     鼠賊で耳を削がれ追い払われた者の中には地元出身の者もおり、日が経つと、ひそかに地元へと帰って親兄弟あるいは知人を頼って隠れ住むものもあった。
     この様子を国司が耳にして、延暦24年(805年)の春、美濃殿の百歳の祝賀として農家にその年の年貢を免除し、また隠れ住んでいた元鼠賊の輩を赦免した。
     赦された輩は八鬼山の原と3年分の扶持米を賜り、田畑の開発を仰せつかるという、ありがたき仁政であった。
    《この者らは耳に傷があったことで「軽耳八鬼山(けみみやきやま)の鼠賊」と呼ばれたという。他国で「道路奪(どろぼう)」というものを「けみみやき山」というのは筑摩郡と安曇郡に限られている》

     

    【その他の記】

     

    雨乞いと「木船」の地名(雨乞ニ付木船ノ地名ノ事)
     弘仁8年(817年)の夏、大干魃によって作物が枯れ、農民はひどく苦しんだ。
     そこで宮本神明宮の神前において火を焚き神楽を奏して、郷の民が大勢集まり雨乞の祈願をした。
     
     その居並ぶ民の中に、12、3歳ほどになる子供がひとり神殿へ上がり、幣束を持って3丈ばかり(約9メートル※尺の誤字か。尺であれば約90センチ)飛び上がった。
     しばらくしてその子供が庭に下り立ち「民が降雨を祈るのならば、諸々の川の流れを眼下に見下ろす高い山において、柳の木で船を作り、冷たく清らかな水を捧げて龍神を招請し祈るがいい」と口走り、神殿へ幣束を戻すと汗を流してその場に倒れた。
     神人が「これは」と言って近づくと、子供はむっくりと起きて立ち上がった。
     すると不思議なことに童子の身体から一陣の風が巻き起こり、幣束が4,5枚風にちぎれて民が大勢居並ぶその上をひらひらと舞っていく。
     皆が奇異なことであると目を離さず見ていると、幣束は北に向かってなおも舞っていく。
     神人と人々とがその後を追っていくと、幣束は難期の森の北の峰へと舞い上がり、松の枝に引っかかって止まった。
     
     神人はそこに駆け寄りよくよく見て、神徳のお告げに叶った実に良い場所である、として帰って、雨乞の場所として皆に演説、披露した。
     皆は信心してそれを肝に銘じ、帰宅して翌日の雨乞の準備をした。
     
     翌日は早朝から皆が集まり来た。
     神人がやって来て職人に指図すると、木こりが木を伐採し、木挽職人は木を割り、大工は彫ったり削ったりして、昼には雨乞用の木船がたちまち出来上がった。
     それから神人たちは中央に木船を据えて、清らかな水を汲んできて木船へと注ぎ入れ、三重にしめ縄を回し張り、五行の旗(五色=青赤木白黒)を立て、諸々の龍神を招請する旗に至るまで、厳重に祭壇を整えた。
     それから神人たちが村長らに申し渡すには「我々は祭主をはじめとしてしばらく休憩して、申の下刻(17時)から祈祷を始める。各方はこの文を大勢に教え、太鼓を乱れ打ちながら一斉に唱えさせるように」と、短冊ほどに切った紙に「天地九天の龍王等暴雨令降給え矣」と書いた。「これは『てんち、きゅうてんの、りゅうおうたち、ぼうう、ふらせたまえ』と読む。暴雨とは荒い雨という意味である。この文を繰り返し大声で唱えるように」と、それを一枚ずつ各人に渡すと、皆は承知して退出した。
     
     程なく申の中刻(16時)になると、神主らは装束をつけてやって来て、祭壇へ上がり祓えを修して、祝詞の祭文を高らかに詠み上げた。乙女は鈴を振り、神人は太鼓を打って神楽を奏した。
     途中から太鼓を乱れ打ち、神主らが大声で祈りを上げた。
     その時農民らが大勢で唱えていたのをよく聞けば「てんじく、てんの、りゅう、たつ、ぼうう、降らせたまえなあ」と唱えている。
     神人たちは顔を見合わせて「なんだこれは、文字もわからぬ農民たちであるな」と嘆いた。
     農夫らはただ一心に「てんじくてんのう」と唱えながら祈った。
    
     黄昏時になり、神人たちの願文読み終わりの声と同時に龍神に願いが通じたのか、たちまち雷が鳴り出し、黒雲がたなびき、稲光が激しくなって雨が降り出して一晩中大雨になった。
     万民はこれを大いに祝い喜んだ。
     
     その後、木船を水を汲んだ場所に奉納しそこを「木船の清水」と人々が言うようになった。
     また、「高い山あっての神恩である。倭(日本)の国の高山は富士山であり、わが信濃国の高山は浅間山である」として地名を「木船」、この山を「富士浅間山」と名付けたのはこの時からであるという。

     

    「切久保」「諏訪社」「落倉」「楠川」の発祥
     北の祝部が鹿庄《鹿庄とは塩島の村をいう》の人々に「この神祠はなんという宮か」と尋ねたところ、人々が言うには「昔、『キンリ殿(天皇)』がお越しあそばされてから『公方殿(役人)』がいらっしゃった所だと言い伝えられているので『キンリクボウの両様の御宮』と申します」と答えた。
     
     祝部がよくよく考えて「さては昔、仁品王が当地にお越しになった時に御宿とした所、足長鹿の住居跡であるな」と考え、改めて神社を建て諏訪明神として祀り「吉利久保諏訪宮」と称した。
     
    「置千坐原(おちくらはら)」とは、北の祝部が毎年、春夏秋冬にこの原において「千坐床」を置いて祭祀を行ったことから「置千坐原」と名付けたのである。《「千坐沖戸」とも「八足卓」ともいう》
     
     祭りの日、小谷の氏子が早朝にやって来て、原の北にある沢のほとりで待って、祝部が来るのが見えてから原へと上ったので、この沢を「待沢」と名付けた。
     
     塩島の「吉利久保」と「置千坐原」の間を西から東へと流れる川がある。この川は深く、にわか雨の時はたちまち水位が増し、水は濁って土砂が流れ、渡ることができないので難儀することが多かった。
     ゆえに、人々はこの川を「難儀川(なんぎがわ)」と呼んだ。
     置千坐原での夏祭りで、折しもにわか雨が降って、祝部をはじめ人々は川を渡ることができなかった。
     その時、塩島、吉利久保の方から大勢の人が出て、木を伐って橋を架けて渡った。
     この時祝部が言うには「この川を『難儀川』と呼ぶのは良くない。水が濁っている時は『ナンギ』、水が澄んで濁りがなくなれば(濁音が取れれば)『ナンキ』、南木となる。南と木を合わせると『楠』の字となる。今後は『楠川』と呼ぶがよい」として川名が定まったという。

     

    「大網峠」「姫川」「大所」「雨飾」の地名(大網峠ノ濫觴ノ事、非命川ノ名ノ事、并大所地名ノ事)
     越の国の集落からみだりに山林へと侵入し、薪や柴を刈り取ることを禁ずるために健男らが峠に出て遠見張り(あみはり)した。
     ここを「大網峠」と呼んだ。
     東の高い峰から押し廻し(回り込んで)立入禁止の措置をし、川の西は木を伐りに来る人を追ったことから「追所(おうどころ=大所)」の地名が起こった。
     鹿庄から流れくる川が大所で合流して大河となり、北の海(日本海)へと流入する。
     この川を渡る人が流されて溺れ、非命の死を遂げる人が少なくなかったことから、後代になってその川を「非命(ひめ)」と呼んだ。
     大網峠の南に小舎を建て置いて、夜はここで眠り昼は峠に登って遠見張りした。
     ここでは風雨が激しい時には雲や霧に覆われ何も見えず、そんな時人々は東の高い峰の方を向いて「雨風去れ、雨風去れ」と唱えた。これを大勢で唱える時は「雨かざり雨かざり」と聞こえたことからこの高い山を「雨加佐里の峰(あまかざりのみね)」と名付けたという。
     雨加佐里の峰から回り込んで人止め峠(大網峠)の麓から非命川を越えた西側、追所の北に「国尻」と呼ばれる場所があり、ここが信濃と越後の国境である。
    (仁科濫觴記終わり)

    後日、各項目について補足・解説のページを掲載予定(現在執筆中)

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