鹿島槍ヶ岳はいかにして鹿島槍ヶ岳となったか、山名の由来。

鹿島槍ヶ岳 地図 

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 大町市東方の鷹狩山から望む北アルプス。
 2000メートル級の巨大な岩の壁。


鷹狩山山頂から望む北アルプス
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 左から、
蓮華岳、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳がひときわ目を引く。
 大町市を代表する三山。

大町市を代表する三山「蓮華岳」「爺ヶ岳」「鹿島槍ヶ岳」
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 鹿島槍ヶ岳。

 2つの頂をもつ双耳峰。

 標高は南峰(標高2,889 m)と北峰(標高2,842 m)。

 北峰の北東側の谷にある「カクネ里雪渓」が2018年、正式に氷河として認定され(日本では4例目)話題となった。

冠雪の鹿島槍ヶ岳
EOS5D Mark IV + EF70-200mm F2.8L IS II USM

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 地元民や山好きには馴染み深いこの『鹿島槍ヶ岳』という呼称は、元々あったものではなかった。

 古来、この山は『鶴ヶ岳(つるがたけ)』と呼ばれていた。

鹿島槍ヶ岳の峻崖
EOS5D Mark IV + EF70-200mm F2.8L IS II USM + EXTENDER EF2×III

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 どうして『鶴ヶ岳』なのか。

 それは、山容を見れば一目瞭然。
 この山に鶴の雪形(ゆきがた)が現れるからだ。

鹿島槍ヶ岳の「鶴」の雪形
鹿島槍ヶ岳『鶴』の雪形

 

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 この山の隣にある爺ヶ岳は、その山肌に『種まき爺』の雪形が現れることから名付けられたことを考えれば、この山も『鶴ヶ岳』と呼ばれるようになったことは自然に思える。

  北アルプスの多くの山々がその山容や雪形などから名付けられている中で、むしろ『鹿島』の名は異質に映る。

 いったいなぜ、この山が『鹿島』の名を冠するようになったのだろうか。

 郷土歴史家の降幡雎(雷淵)が明治37年に著した『新撰仁科記』には、この山が名を変えた経緯が記されている。

 天文三年、地屢(しばしば)震ひ、西境の山岳に鳴動の声を聞く《越中立山の鳴動せしならん》。
 既にして鶴ヶ岳の南の一峯潰崩して、駒澤川の上流を壅塞(ようそく)すること数十日の後潰決し、洪水氾濫し来り。
 猫ヶ鼻に於て東南に決して、野口村借馬村大町村非常の害を被むる。
 
 世俗、鹿島明神は地震を鎮圧し給ふと伝ふ。
 是に於て人を常陸に派して、鹿島明神を勧請し来り。
 鶴ヶ岳を改めて鹿島大岳と云ひ、駒澤川を鹿島川と云ひ、駒澤村の牧場を改めて鹿島と云ひ、厳然たる祠宇を建て、要石を埋め七個の鳥居を建て、以て鎮圧を祈り、同時に大町若一王子社内、及宮本神明宮境内にも鹿島明神の小祠を設けたり。

【 新撰仁科記 十九 天災地変史 頁131、132 】

― 現代訳 ―
 天文3年(1534年)、大地がたびたび震え、信濃の西境の山岳(現・北アルプス)に地鳴りの音を聞いた《これは越中の立山が鳴動したものであろう》。
 そのうちに、鶴ヶ岳の南の一峰が崩れて駒澤川の上流をせき止め(天然ダム)、数十日後にそれが決壊し、氾濫、洪水となってやって来た。
 洪水は猫ヶ鼻で東と南に分かれて、野口村と借馬村、大町村が大変な被害を受けたのである。
 
 世に「鹿島明神は地震を鎮める」と伝えられている。
 そこで、常陸の国(現・茨城県)に人を派遣し、鹿島明神を勧請してきたのである。
 それで、鶴ヶ岳を改めて鹿島大岳と言い、駒澤川を鹿島川と言い、駒澤村の牧場を改めて鹿島と言うようになった。
 おごそかな祠を建て、要石(かなめいし=地震を抑える石)を埋め、7つの鳥居を建てて、地震の鎮圧を祈った。
 これと同時に、大町の若一王子社(現・若一王子神社)内及び宮本神明宮(現・仁科神明宮)の境内に鹿島明神の小祠(摂社)を設けたのである。


 北アルプスを震源とした地震が、鹿島槍ヶ岳の一角を崩壊させ川をせき止めたことによって自然ダムが形成され後に決壊し、下流の集落に甚大な被害を及ぼした。
 そこで民衆たちは地震を鎮めると伝えられている鹿島神宮へと使者を遣り、鹿島明神(タケミカヅチ)を勧請した。
 それを機に、鶴ヶ岳を『鹿島大岳』と改称した、のだという。

 では、鹿島明神を勧請したと伝えられるその社は現存するのか。

 大町市平地籍、イワナの釣れる釣り堀『鹿島槍ガーデン』のすぐ目の前に、今もその社はある。(地図



 『鹿島神社』社殿。

大町市平「鹿島神社」
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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社殿には「鹿嶋大神」の額。

「鹿嶋大神」の額
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 江戸時代中期、松本藩主であった水野忠恒の命で編纂され、1724年(享保9年)に完成した地誌『信府統記』にも、この鹿島神社についての記述がある。

 鹿島山ト號ケタルハ昔、鹿島明神出限アリシトテ此所ニ祭リシヨリ今ニ此名アルナリ。
 
《 現代訳:鹿島山と名付けたのは、昔、鹿島明神が現れたとしてこの場所に祀ったことから、現在にこの名があるのである。》

【 信府統記、巻二、二十一丁、大町組山川地理ノ事 】
 鹿島大明神 借馬村
 舞殿(二間三間)、鳥居七ツアリ。當社ハ常陸國鹿島勧請ノ一。由、年代知レス。

《 現代訳:鹿島明神 借馬村 舞殿(二間×三間)、鳥居が7つある。当社は常陸国鹿島明神を勧請した社のひとつ。由緒及び創建の年代は不明である。》

【 信府統記、巻六、二十四丁、大町與中凡テ二百十二社附宮本神明宮縁起由来ノ事 】

 
 現在では7つの鳥居も、埋めたとされる要石(後述)も今は残されていないが、『新撰仁科記』のくだりにも「7つの鳥居を備えた」とあるように、かつては相当の神徳を誇った社であったことが窺われる。

大町市「鹿島神社」の境内
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 ちなみに、神社入り口に立てられた案内板には、次のような由緒書が記されている。

 大同二年(807年)「たいら川」の氾濫に里人が天地の保護神として常陸国鹿島神社に分霊を奉じて勧請し、あわせて丑寅に息柄神社、辰巳の方角に鹿嶋神社を祀った。鹿嶋神社の神徳が広大であったため、里人の集落「鹿嶋」と改称し、「たいら川」を「鹿島川」、「鶴ヶ岳」を「鹿嶋槍ヶ岳」と改称した。(以下略)

 常陸国の鹿島神宮を勧請したことで山名、地名が改称されたという筋書きはほぼ同一である。
 勧請の理由と年代にやや違いが見られるものの、いずれにせよこの社が災害鎮護を目的に鹿島神宮から勧請されたものであることは間違いなさそうだ。

 鹿島槍ヶ岳の山名のルーツは、遠く茨城県の鹿島神宮にあったのだ。





茨城県鹿嶋市、鹿島神宮。

 創建は飛鳥時代を遡り、奈良時代に編まれた常陸国風土記』にもその名が見える、東国随一の古社。

 平安時代の『延喜式神名帳』で、「神宮」と称されたのは伊勢神宮と香取神宮、そしてこの鹿島神宮のみであり、古くから大変な神徳を誇った。

鹿島神宮社号標
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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楼門(国重文)。

鹿島神宮楼門
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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本殿(国重文)。
武神、タケミカヅチを祀る。

鹿島神宮本殿
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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奥参道。
 古代、常陸国鹿島郡全域を神領としていただけあり、神宮の境内もきわめて広大。

鹿島神宮参道杉並木
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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奥社。
 タケミカヅチの荒魂(あらみたま=神の荒々しい側面、荒ぶる魂を祀る。

鹿島神宮奥宮
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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要石遥拝所。
 奥社から更に入った林中にある。

鹿島神宮要石遥拝所
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 要石。
驚くほど小さい。
丸石の中央に僅かな凹みがある。

 日本神話で、葦原中国の平定のためタケミカヅチが降臨した磐座(いわくら)がこの要石だとされる。
 地上に見えている部分はごく一部であり、要石自体は地中深くにまで伸びる柱で、この柱によって日本の大地は繋ぎ止められているとされる。
 『水戸黄門仁徳録』によれば1664年、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという逸話が残されている。

鹿島神宮の要石
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 もとより地震が多い立地であったことと、要石が漂う日本を繋ぎ止める柱であるという伝承から、要石が地中で暴れ地震を起こす大鯰の頭を抑えているという解釈が生まれた。

 そうしてタケミカヅチは地震鎮護の神としても信仰されるようになったのだ。

 その神徳を伝え聞いた我が郷里の先人たちは、鹿島の神の力を以て、天変地異の鎮圧を願ったのだ。

鹿島神宮の要石
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 鹿島神宮から南西に13キロ。
 利根川を挟んだ千葉県香取市に「香取神宮」がある。

 鹿島の神タケミカヅチとともに葦原中国平定で武功のあったフツヌシを祀る。

香取神宮社号標
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 鹿島神宮と香取神宮は、ヤマト王権の東国平定の拠点として祀られていたことから、互いに深い関係にあり、一対のものとして扱われている。

香取神宮拝殿
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 両者の深い関係性を表すものの一つが要石である。
 鹿島神宮と同じく、この香取神宮にも要石があるのだ。

香取神宮 要石への案内板
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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要石遥拝所。

香取神宮 要石遥拝所
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 鹿島神宮の要石が凹なのに対して、これは凸形となっている。

 鹿島神宮の要石が大鯰の頭を抑え、この要石は大鯰の尾を押さえていると伝えられる。

香取神宮の要石
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 地震国である日本は、大小の地震に繰り返し襲われる運命にあり、それは現代でも全く変わらない。
 ただ古の人々にとって地震はその原因も明らかでなく、対処のしようがない厄災であったろう。
 当時の人々ができることといえば、神の力にすがって、地震の鎮圧を祈るよりほかなかったに違いない。

 わが郷里の鹿島神社も、そうして遥か常陸国から勧請され、日々の平穏を願う人々の祈りを集めてきた。

秋の鹿島槍ヶ岳
EOS5D Mark IV + EF24-70mm F2.8L USM

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 先人たちのその思いは、山河の名に変わって、今日も呼び継がれている。



参考文献

『新撰仁科記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『信府統記 巻二』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『信府統記 巻六』(国立国会図書館デジタルコレクション)
要石(Wikipedia)
鹿島神宮(公式WEB)
鹿島神宮(Wikipedia)
香取神宮(公式WEB)
香取神宮(Wikipedia)
鹿島槍ヶ岳(Wikipedia)

 

あとがき

 冒頭に紹介した『新撰仁科記』のくだりには続きがある。

 抑(そもそも)我信濃国は諏訪明神開拓の地と称せられ、国中大小の神祇幾千百座あり。
 然れども鹿島明神を祭るは、諏訪明神の神慮にあらずと称し、諏訪社家の故障あり。
 試に信濃全国の神社調を見よ、我郡の鹿島社の如きもの一座だもあらず。
 我郡中村社百余座中、諏訪社殆んど半数を占む。
 然るに山川にまで鹿島の名を冠するを思えば、此の震災の影響甚大なりしを知るべし。
 蓋(けだし)当時戦国の世にして、諏訪社家の聞知せざりしに由るか、将(はた)社家の承諾を得て山川の地名まで変ぜしか、今知るに由なし。
【 新撰仁科記 十九 天災地変史 頁131、132 】

― 現代訳 ―
 そもそも、わが信濃の国は諏訪明神(タケミナカタ)が開拓した地であると言われており、信濃全域に大小の社や祠が幾千百座ある。
 しかし、鹿島明神(タケミカヅチ)を祭ることは諏訪明神の意向に沿わないといわれ、諏訪の社家から異議のあるところである。
 信濃全域の神社調を見ても、我が郡内に鹿島社のようなものは一座もありはしない。
 我が郡内の村社百余座のうち、諏訪社はその半数をほとんど占めているのである。
 それなのに、山や川にまで鹿島の名を冠したことを考えると、この震災の影響が甚大であったことを知るのである。
 もしかすると、当時は戦国の世であったことから諏訪社家がこのことを聞き及ばなかったのか、はたまた諏訪社家の承諾を得て山や川の名を変更したのか、今となっては知るすべもないのである。

 『古事記』の国譲り神話において、鹿島の神タケミカヅチは、葦原中国(あしはらのなかつくに)を統べるオオクニヌシに対して国譲りを迫った。
 オオクニヌシは「息子のコトシロヌシが答える」と言った。するとコトシロヌシは国譲りを承諾した。
 するとオオクニヌシは「次は息子のタケミナカタが答える」と言ったところ、タケミナカタはタケミカヅチに力競べを挑んだのであった。

(前略)
 その建御名方神が、千人引きの岩を手の先で軽々とさし上げて来て、「いったい、だれが、わたしの国にやって来て、こそこそと妙な話をしているのか。それなら、わたしと力競べをしようではないか。わたしが、まず、おまえの手をつかむことにしよう」といった。
 それで、建御雷神が建御名方神にその手をつかませたところ、その手はたちまちに氷柱に変わり、また、剣の刃と変わった。建御名方神はびっくりして、退いた。
 そこで建御雷神が、逆に、「おまえの手をとらしてくれ」といって、建御名方神の手をとると、その手は柔らかい葦のようであった。そこで、その手をつかみつぶして、建御名方神を投げ倒したので、建御名方神は逃げていった。
 建御雷神は追っていき、とうとう、諏訪湖で追いついた。殺そうとすると、建御名方神は、「もう降参です。私を殺さないでください。この地以外にはどこにも行きません。また、今後は、決して、わたしの父大国主神やわたしの兄の事代主神の言葉に違反(そむ)いたりしません。この葦原中国は、天照大御神の御命令通りに、さしあげましょう」と申し上げた。

【 梅原猛『古事記』2001年 学研M文庫 P63~64 】

 つまり、タケミナカタはタケミカヅチに完敗して、命乞いをする形で諏訪の神となったのである。
 後に諏訪大社は信濃国一宮となり、タケミナカタは信濃を代表する神となった。
 降旗雎はこの事を捉えて、数多の社の大半を諏訪神社が占めるこの信濃国において、諏訪神のいわば宿敵ともいえる鹿島神を勧請してくることは尋常ならざることだ、と言っているのである。
 確かに、現在でも長野県内に鹿島神社はほんの数社しかなく、鹿島神社自体がこの土地では異色の存在であることに変わりはない。
 降旗雎の言うように、勧請してくるだけならまだしも、山河の名前まで変えてしまうというのは、それ相応の大災害が確かにあったのではないか、と思わざるを得ないのである。

 幼い頃から慣れ親しんだ鹿島槍ヶ岳に、こんな物語があったことに驚いた。
 何気ない地名にも、先人たちの切なる思いが込められていることを知ったのだった。

 

 

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