夕暮れスナップ、十夜会の宵 ― 善光寺参道

撮影地:長野市 善光寺参道
機材:全てEOS5D Mark IV + EF50mm F1.2L USM + ブラックミストNo.1

.

初秋の夕暮れ。
駅前から善光寺への散歩道。

.

秋の夕暮れは、暖かくてもどこか寒々しい。

.

.

.

晴れでも曇りでもない、曖昧な空。

.

.

.

地面には、一応の規則的紋様。

.

.

.

.

.

.

雲間の空は、すでに冬の透明な青。

.

.

.

ささやかな自己主張の爪痕。

.

.

.

そうか、もうそういう時期なのか。

.

.

.

古めかしく作ったレンガ壁が本当に古びてきた。

.

.

.

古びたレンガ壁にも一寸の草花。

.

.

.

日の入り近し。

.

.

.

提灯に灯りが点る。

.

.

.

道ばたの杭に誰かが差した花。その上にはキリギリス(多分、クダマキモドキ)。

.

.

.

夕暮れ空に、赤い提灯。

.

.

.

善光寺へと連なっている。でもなぜだ。

.

.

.

愛玩動物を愛玩す。

.

.

.

.

.

.

大勧進の手前に「十夜会」の提灯がかかっていた。

.

.

.

「十夜会」はいわゆる「十夜法要」のことで、阿弥陀様に感謝する仏事なのだそうだ。

.

.

.

由来は、『無量寿経』の「ここにおいて善を修すること、十日十夜すれば、他方諸仏の国土において、善を為すこと千歳するに勝れたり」なんだとか。

.

.

.

この日は、善光寺の十夜会(10月5日〜14日)の最終日なのだった。

.

.

.

これもなにかの縁。感謝感謝。

.

.

.

濡れ仏の前に着く頃には、夕焼けになっていた。

.

.

.

本堂が閉扉され、大提灯に灯が点る。

.

.

.

仲見世通りにも夜の帳。

.

.

.

.

.

.

石畳に街の明かりが映る。

.

.

.

石畳(一説に7777枚)は正徳四年(1714年)に江戸中橋の大竹屋平兵衛が寄進したもの。勘当した放蕩息子が実家に忍び込んだのを、泥棒と勘違いして槍で突き殺してしまったことへの供養のためだという。

.

.

.

三宝荒神が、おっかない顔をしてこっちを睨んでいた。

.

.

.

.

.

.

10月に「十夜会」を修する大本願には、賑やかな灯りが。

.

.

.

.

.

.

最終日の法要にむけ、準備が進んでいる。

.

.

.

.

.

.

夜が濃くなってきた。

.

.

.

善光寺を後にして、再び駅の方へ。

.

.

.

ふつうの金曜日の、ふつうの夕方の景色。

.

.

.

それでも、金曜日とは思えないくらい、街は静かだった。

.

.

.

昔と違って、金曜の夜の喜びは、ひとり静かに噛みしめるのだ。

.

.

.

それもまた時代というものか。

.

.

.

食品サンプルは、永遠に「美味しそう」なままでいて、決して美味しくなることはない。と、格言じみたことを言ってみるが、大意はない。

.

.

.

家路を急ぐ人を撮りつつ、家路を急ぐ。

.

.

.

.

.

.

そんな、金曜日の夜だった。

.

.

.

 このごろ、写真的体力の衰えを実感していた。

 ここ1年間、撮影頻度をぐっと減らした生活を送っていたせいで、以前のように即座に撮影態勢に入れない体質に変わってしまったからだ。
 これまでも、写真的な原点回帰が必要だと感じた時は必ずここに撮りに来ていたから、今回もリハビリ的な意味合いを込めてやってきた。

 カメラを持って善光寺参道を歩き始めてすぐに、悪い予感が当たった。
 まったく撮れない。
 いろいろキョロキョロ見回してみるのだが、写すべきものが見当たらない、というか、見つからない。
 視覚的には見えているのだけれど、「写真的には全然見えない」身体にいつしかなってしまっていた。

 必死のリハビリで最終的にはなんとか勘を取り戻せたように思うが、こんなに苦労したのは初めてだし、撮れなくて辛いという思いをしたのも初めてだった。

 練習は「上手くなるため」にするためだけではなく、「これまで得たものを衰えさせない」ためにするものでもあるのだなぁ。
 撮らなきゃ、写真の腕だって簡単に錆びていくのだなぁ。
 

タグ「善光寺界隈」の関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です